メイチェン著『キリスト教とは何か-リベラリズムとの戦い』

 祈祷会でメイチェンの『キリスト教とは何か』を読了しました。日本キリスト改革派教会の信仰の源流ともなった古典ですが、改めて読み直して教えられることが多くありました。祈祷会に出席された兄弟姉妹方との分かち合いからも学ぶことが出来て感謝しています。是非、教会の皆さんに読んで欲しい内容なのですが、正直なところ読み易い本ではありません。もう絶版になっていますから入手も困難です(オンデマンドで注文することができるかもしれません)。そこで、今回学んだことを要約した形で紹介したいと思います。

 メイチェン(John Gresham Machen)が本書を記したのはおよそ百年前の米国においてです。当初、彼はアメリカ合衆国長老教会(PCUSA)の教職であって、プリンストン神学校で新約学の講師をしていました。その後、一年間ドイツに留学して研鑽を積む中で自由主義神学に触れ、かえって正統的改革派神学に目覚めることとなりました。メイチェンはやがて合衆国長老教会(PCUSA)を離脱して正統長老教会(OPC)という別教派を立ち上げますが、彼の論争は長老主義教会を舞台にして行われており、ウェストミンスター神学校や新ミッションの設立等、教会の具体的な活動を伴っていた背景があります。その意味で、本書は正統派カルヴィン主義の信仰を堅持する教会のための弁証論となっています。

 メイチェンが直面している教会の現実は、近代科学と産業の発展によって古い価値観が根こそぎにされ、教会の伝統もまた新しい生活環境の中で放棄されつつある事態です(このような状況は百年後の今でも旧キリスト教国で進行中)。そこで生じる問いは、キリスト教は現代科学と共存できるかどうかです。例えば、もし歴史学の調査によってイエスが事実上存在しない人物であったことが証明されたら、キリスト教の信仰はどうなるのか。こうした事態に適応する形で、近代において新しい思想の流れが生じてきました。メイチェンはそれを自然主義的リベラリズムと呼びます(A.カイパーでは「モダニズム」)。このリベラリズムが教会を侵食し、もはやキリスト教とは言えないほどに信仰を脅かしていることにメイチェンは警告を発し、自身激しい抵抗を見せています。

 リベラリズムを根本原理とするキリスト教はキリスト教ではない、とメイチェンは断じます。その根本にあるのは神が歴史に直接的な介入をすることを否定する自然主義であり、科学と宗教が分離されます。宗教は現代生活に一定の道徳的価値を付与する普遍的原理を象徴するものとされ、キリストの十字架の贖いによる罪からの救済はもはや無用とされてしまいます。また、リベラリズムによって信仰は知的な側面から撤退し、敬虔主義的・道徳主義的な傾向をもつようになります。

 「神は万人の父」「人類は皆兄弟」とのリベラリズムの教義は、教会の歴史的信条をもはや顧みることもなく、聖書の教理そのものを軽視します。そこには徹底した懐疑主義があり、聖書に表明されたすべての真理は相対化されます。これに対し、メイチェンはキリスト教が歴史的現象であり、使徒たちが新約聖書において語る教理もまたキリストの十字架と復活の事実に基づいていると主張します。キリスト教の教理は、歴史的事実とその意味が一つになって成立したものだからです。

 リベラルな歴史家たちの標榜する「イエスに帰れ」との呼びかけは、実際には原始キリスト教会が知る歴史的イエスからの乖離をもたらし、架空のイエス像を自分の好きなように作り上げる個人の営みに過ぎません。キリスト教ではイエスの人格と教理とが一つに結びついており、キリストとキリスト者の関係をつくります。リベラリズムではイエスを人格的に尊敬して人生の模範としますが、キリスト教では救い主としてイエス・キリストを崇め、その教えに従います。

 リベラリズムは宗教を「生活」と規定し、説教では「〜せよ」と語ります。そのため、聖書の複雑な教理を回避し、会衆の受けを狙って教えの素朴さを説いています。しかし、初代教会は福音の真理を語ることに努め、それが正義や純潔、愛の業に結びつきました。生活は信仰の証ではありますが、真理を曲げて生活を説くのは誤りである。厳正な教理の主張は諸教派との交わりを妨げないが、リベラリズムを主張する者たちはキリスト者ではないため「教会」の交わりにはならない。こうした「教理嫌い」はリベラリズムの大きな特徴だ、とメイチェンは主張します。

 メイチェンが対峙している「リベラリズム」は一つの教派的特徴ではなく、キリスト教会全体を飲み込む時代の風潮です。「教理嫌い」として現れる信仰の知的な側面からの撤退とそれに伴う敬虔主義的・道徳主義的傾向は、今日の日本の教会にもそのまま当てはまるように思われます。先に祈祷会でも取り上げた、渡辺信夫先生による『教会論入門』のシリーズでは、日本の場合には個人的・情緒的な敬虔主義があり、「教理嫌い」ならぬ「教派嫌い」が土壌にあると指摘されていましたが、それは日本独自の傾向ではなく、戦前の米国でもすでに見られた福音主義教会の傾向であったようです。

 メイチェンは、そこで、福音の教理を「神」「人間」「聖書」「キリスト」「救い」「教会」に大きく分けてリベラリズムと正統的信仰との相違を浮き彫りにしようと試みます。以下、それらの諸点におけるリベラリズムの特徴を挙げてみます。

神について

 リベラリズムでは「神」の概念は不要とされます。人間は神について知ることはできず、それを漠然と感じることができるだけである。ただ、イエスのみが神を知る道であり、神を知らなくてもイエスの人格によってそれを理解することができる。イエスは隣人愛を実践することで神を知らせており、理論的な知識については語っていない。イエスは神を「父」と呼ぶが、それは分かりやすく語るための方便に過ぎない。神については万民の父であるという単純な真理だけで十分であり、そこにキリスト教の本質がある。こうして、リベラリズムの神論では、神と世界の区別が曖昧で、神は世界の巨大なプロセスであって、人間はそこに組み込まれた一部とみなされます。リベラリズムは、そうした曖昧な自然宗教である様子を見せています。それに対して聖書の神は、被造物とは絶対的に区別される超越者であり、イエス・キリストに贖われた者たちの父であるお方です。

人間について

 リベラリズムの人間観には決定的に罪が欠落しています。人間には善なるものが内在しており、それが悪を克服するための鍵です。しかし、聖書によれば人間は義なる神の裁きの下にある罪人です。メイチェンはこの罪意識の喪失を、戦争によって個人の人格的罪責が曖昧にされたことと、啓蒙主義による異教的人生観が浸透したためとしています。

 罪意識の不在によってリベラリズムの人間観は楽観的になり、人間の能力を信じて健全な明るい生活を実現することが人生の目標となります。しかし、メイチェンによればキリスト教は「破れた心の宗教」です。罪の現実から恵みによって人間性を回復される、より高度なヒューマニズムを保持しています。聖書に基づくこの正しい人間観を回復するために、「小さな罪に煩わされることはない」との誤った忠告に従うのではなく、聖書の律法に学びつつ生活の吟味を怠らない姿勢が要請されます。

聖書について

 リベラリズムは聖書の権威を認めません。一見イエスの権威を承認するようですが、実のところはイエスに現代の倫理観を重ね、それを個人の経験で受け入れるだけです。そこでは歴史は考慮されません。現在の宗教経験こそが信仰のすべてであり、そこに働くのは情緒です。

イエス・キリストについて

 メイチェンが教理に関して特に力を入れて論述しているのが、キリスト論と救済論についてです。

 リベラリズムはイエスを崇敬の対象とするが信仰の対象とはしません。キリスト教は心理学的に再構成されたイエスに倣って生活をすることである、とされます。しかし、新約聖書が記す真の模範はキリストへの信仰を前提としています。イエスは救い主であると同時に兄弟であり、信じて従う者に完全な模範を提供します。しかし、そこには家族との断絶を求めるような峻厳さもある。

 キリスト教有神論は奇跡の可能性を必然的に保持します。人間の罪を克服する善は神の介入を必要とし、その創造的な力が奇跡によって現れます。奇跡を信じないリベラリズムはイエスにおいて教師をもつに過ぎませんが、奇跡を信じる教会は救い主を持ちます。罪の現実が神の介入を求め、罪の確信がその超自然的な贖いの業を喜んで受け入れます。

 リベラリズムは神の御子であるイエス・キリストの超自然的人格もすべての奇跡も否定します。「イエスは神である」と口では言いますが、それが意味するのは「人間イエスは最高の存在である」ということです。福音主義教会のリベラリズムはそうして二重の言説を弄していて、実質的にはイエスの神性を否定しています。

救いについて

 リベラリズムは救いを人間の中に見出そうとし、キリスト教は神の業の中にそれを見出します。リベラリズムにとってはイエスの人間性が救いであり、キリスト教はイエスの十字架による贖罪を救いとします。リベラリズムもまた贖罪の説教をします。しかし、そこでの「贖罪」が意味するのは自己犠牲の模範や神の罪への憎悪や神の愛であり、人間の罪の贖いという本質を欠いているため無益です。ここには福音が歴史に依拠することへの疑いがあり、それゆえにリベラリズムは神秘主義的な傾向をもちます。また、贖罪による救済を狭量と断定し、普遍的救済へと押し広げる意図には多元主義への傾向を認めることができます。

 リベラリズムは「神の怒り」を嫌い「愛の神」との矛盾を説いて贖罪の教理に反対します。しかし、新約におけるイエスの教えはすべて罪に対する神の怒りを前提としています。そして、神自身が犠牲を払い、罪を赦すために御子イエスを十字架に送ります。真実な愛は、これに示される無償で打算のない愛です。また、リベラリズムは神の寛容と愛を強調する。しかし、それは真の喜びを人間にもたらしません。聖書は御子を与えた神の愛のみが真の喜びをもたらすと語ります。そして、キリスト者の喜びには恐れが伴います。

 リベラリズムの標榜する救いは、人間の内なる悪が内なる善によって克服される物語ですから、外からの介在は不要です。それは教理からしても一般恩寵論として評価することはできますが、人間に必要とされるのは「改善」ではなく死からの再生です。キリストの贖いは聖霊によって個々の信徒に適用され、神の創造的な力によって新しい生命が始まります。そこに生じる新しい人格に悪を克服する希望があります。こうして、義認と新生は互いに切り離せない救いの二つの側面です。

 現代の風潮は信心さえあれば信仰の対象は問いません。また、知識の混入していない純粋な信仰を評価して教理を排除しようとします。リベラリズムの信仰は、キリストを師と崇めて幸福を追求することです。そこでキリストの命令に服従することで救いを達成しようという態度は純度の高い律法主義ですから、教会が救いの恩恵性に立ち返った宗教改革の全業績を放棄しようという態度です。

 リベラリズムによれば新生の教理は現実と合いません。しかし、パウロが信仰による生を語ったように、新生は未だ実を結ばなくとも、キリスト者の戦いの生活を通して必ず結実するとの希望を与えます。戦いの生活とは愛によって働く信仰であり、聖霊が信仰を通して働いて律法全体に向かわせ、清い生活を行わせます。

 リベラリズムの徹底した現生指向は、天国や霊魂不滅を否定します。宗教は社会・国家の機能を担うための手段として利用され、海外宣教への動機は共産主義や軍国主義を阻止するためであり、健全な地域社会を実現するために教会が必要だと言われます。これは宗教の堕落と破壊を意味します。キリスト教は、世の中の何かを達成するための手段ではありません(ルカ14:26、マタイ6:33

教会について

 「古い福音主義は個人的であり、新しい福音主義は社会的である」との見解は誤っています。キリスト教は本来、家庭・国家・社会と深い関係があります。ですから、キリスト教は厭世的生活には入らず、イエスの原理を社会問題に適用して考えます。この点では、リベラリズムとキリスト教は一致しています。しかし、リベラリズムにとっては適用されたキリスト教がすべてなのに対して、キリスト教では適用は神の御業の結果とします。リベラリズムは社会制度に対して楽観的ですが、キリスト教では罪のために悲観的に捉えます。

 リベラリズムの宣教師は、キリスト教文化を宣伝し、個人の救霊には関心を持たない傾向があります。しかし、キリスト教の宣教師が負うのはキリストの贖いによる救霊であり、文化的感化はそのために却って有害に働きます。教会が受け継ぐ使徒的宣教は、「人間の善は失われた魂のためには何の役にも立たない。あなたがたは生まれなければならない」と説くことが使命です。

 「人類は皆兄弟」というリベラリズムの教義は神の創造に根拠をおいてのみ通用しますが、キリスト者が「兄弟姉妹」であるのは互いに贖われた者だからです。この関係は決して閉ざされたものではなく、人類全体に対して開かれています。希望のある社会は人間の作り出した制度にではなく、キリスト者によって形成されます。地上の教会は、罪ある人間の社会的要求に対して与えられた神からの最高の解答です。

 現代の問題は、教会が同一組織においてキリスト教とリベラリズムに分離している点にある、とメイチェンは当時の長老教会が分裂している様子を伝えています。見える教会には弱さがあるのですけれども、真の信仰告白を持たない会員や教師が増加していることを嘆きます。しかし、教会には分離を避ける傾向があって、十字架の贖罪による救いの教理を「ささいなこと」として遠ざけ、解決すべき論点が隠蔽されてしまいます。

 リベラリズムは教理を固守する信仰を「狭い」と批判します。ですが、メイチェンからすれば、むしろ無理解なまま伝統的教理を学ぼうとしない彼らの態度が「狭量」です。教理的相違を最重要とするのが保守主義の本領であるはずです。

 教会のリベラル陣営が、教理的相違を無視してキリスト教事業のプログラムにおいて教会を統一しようとするのは不誠実である、とメイチェンは「誠実さ」を強調します。それは神に対する誠実さであると同時に、聖霊の賜物として教会の交わりが持つはずの誠実さを表すのでしょう。長老教会では役員任職の誓約事項が明記されていますから、信条に反する教えを説く教師は明白な憲法違反を犯していることになります。

 リベラルな教会でありたいなら、自らの誠実さのために現教派から分離して別団体を発足させ、自分たちのミッションをもつべきである、とメイチェンは訴えます。すると、教派を分離することは不寛容の結果だとの反論が出ます。しかし、福音主義教会は福音宣教のために信条によって一致する任意団体であるから非寛容でなければ教派は存立し得ないはずです。

 リベラリズムは単なるキリスト教異端ではなく、全く別個の統一体系を持つ思想です。ですから、リベラリズムの教師たちが真のキリスト者の交わりに帰るためには回心が必要です。そこで、福音の真理を守る教会であるためには、教会役員が以下の4点において分を果たさなければならない、と言います。

 第一に、真理の弁証の必要性です。神は論争家によって常に教会を守ってきました。新約聖書も明らかにしているように、真理は誤謬に対置されなければ明瞭になりません。だから「弁証(勉強)より伝道」という言葉に流されず、知的かつ霊的な闘いをなしている者たちを支持し励まさねばなりません。かつて「改革派教会は伝道しないで勉強ばかりしている」と陰口を叩かれて傷ついたせいか、「神学より伝道だ」などと教会会議で発言があったことを思い起こします。今もそういう傾向がないかどうか、改めて吟味したいとところです。

 第二に、教会役員は教師候補者の資格認定において義務を果たさねばなりません。「やがて資格に達するであろう」との見込みで親切心から曖昧な判断をしてはならない。メイチェンは、それは「親切」ではない、と言い切ります。小会が教師候補者を中会に推薦するとき、中会が教師候補者の認定を行ったり説教免許を与えるとき、神学校が入学試験や卒業試験を行うとき、そして大会が教師試験を行うとき、それぞれの場面で、この甘さが思い起こされます。おそらく、それは一般の信徒が知らないところです。現実にその場に立ち会ったことのある教師・長老は、メイチェンが語る「親切」のことはよく承知しているはずです。

 第三に、教会員は牧師招聘において説教の内容に注意し、十字架に情熱をもつ牧師を積極的に招聘する責任があります。キリスト教会が福音に立つ教会であるかどうかはその牧師の説教にかかっています。「学歴のある牧師」「英会話ができる牧師」「若くて溌剌とした牧師」などとは実際に聞いたことのある信徒の要望ですが、教会のプライドや好みによって本来の基準が疎かにされるとしたら、将来的に大きな禍根を残すことになります。

 そして、メイチェンが最重要事項として最後に挙げるのは教育です。キリスト教を拒否する第一の原因は無知にある、と彼は見抜いています。国家が教育に干渉し、文系科目が衰退する一般的状況の中で、キリスト教は生活であって教理ではないという誤った観念がそうした結果をもたらした。昨今の日本でも叫ばれるようになった反知性主義が、メイチェンの時代にも力を振るっていました。それに対抗するためには家庭での信仰教育を改め、教会の教育機関を十分に機能させる必要がある。「キリスト教とは何か」をキリスト者が正しく伝えなければならない、と彼は訴えます。

 『キリスト教とは何か』という本が近年次々に刊行され、中にはベストセラーになるものも現れています。しかし、およそキリスト者によるものではなく、学者の手になるものが殆どです。そして、キリスト者であっても大学教師の書くものは歴史学的・社会学的分析に終始しています。それでは、メイチェンがここで説いているような聖書の教理に基づくキリスト教の自己理解は十分に伝わらず、結果として人々は無知のままに留まることになります。

 以上、少々コメントを加えながらメイチェンによる『キリスト教とは何か』の要旨を記しました。吉岡繁先生の翻訳もとても格調高く仕上がっているように思います。百年前の著作であるが故の古さも所々感じます。例えば序文で「アングロサクソンの誇り」などと口走るところは白人中心主義的キリスト教世界観そのままですから、第二次大戦中のナチスによるユダヤ人虐殺を経験した後の今日では、そのまま読み過ごすことは困難です。また、キリスト論・救済論に及ぶ部分は念入りな論述になっていますが、メイチェン自身が自覚している通り、やはり「パウロ宗教」としてのキリスト教擁護であるとの感は否めません。改革派教会が標榜する「聖書全体」に及ぶ議論は、その後百年の成果を辿らなくてはならないでしょう。

 メイチェンは1937年に55歳で世を去りました。彼によって創設されたウェストミンスター神学校(1929年設立)を拠点に、同僚であったB.ウォーフィールドやJ.マーレー、C.ヴァンティルらがその後の弁証活動を引き継ぎました。日本キリスト改革派教会はこれらの教師たちに学んで戦後の日本に正統主義的教会を確立することに力を注ぎました。今日に至る改革派信仰の系譜を辿るには、それらの教師たちとカール・バルトを中心とする新正統主義と呼ばれた大陸の改革派神学者たちの間で交わされた議論を学ぶ必要があります。メイチェンの業績はキリスト教の本源を明確に示すことで、正統主義的信仰が道を外れることなく未来に向けて歩み始めるための基礎を提供したことにあると言えます。

 ともかく、聖書の啓示に確信の基盤を置く福音主義教会が、キリストの教会ではないものに転ずる過程を具にこの書物から見せられて、私たち日本の福音主義教会の今についても同様の問題があることに気付かされます。改革派信条に立つ私たちの教会は「御言葉によって改革され続ける」のですから変化を恐れるわけではありませんが、福音の真理を鮮明にし続ける努力なしに、時代に流されて行くことには警戒しなくてはなりません。メイチェンの対決姿勢に現れている一つの大きな特徴は、時代の反知性主義に対抗する真摯な情熱であろうと思います。今や世界の教会事情は伝統的教会が衰退して、宣教の場を支配するポジティヴィズム(楽観的肯定主義)に支配された巨大なマーケットの体をなし、人間の魂の奥底にまで触れることのない安価な恵みをばらまいて、真面目な人々のキリスト教離れをますます促すかのようです。今度は私たちの言葉で「キリスト教とは何か」と改めて問わなくてはならないところに、日本の福音主義教会も来ているのではないでしょうか。

お問い合わせ

電話・ファクス 078-992-6658

神戸市西区糀台2-20-7

牧師 弓矢健児 (ユミヤケンジ)

最寄駅

市営地下鉄西神中央駅から徒歩7分

※車でお越しの方は近隣の有料駐車場をご利用ください。