2015年度第2回合同学習会   9月20日(日)午後1時〜2時半

礼拝における祈祷について

 

序.祈祷と礼拝

  祈りの普遍性と聖書の規範

    大江健三郎「信仰を持たない者の祈り」『人生の習慣』(岩波書店1992年)

  礼拝の最小単位である祈祷

  共同の祈り(公的祈祷)と個人の祈り(私的祈祷)

1.聖書の模範

  旧約の祈りと『詩編』  『列王記上』8章23〜53節

  主の祈りの模範

  祈りが対話であることの意味

2.礼拝の中での祈祷

     H.O.オールド『改革派教会の礼拝-その歴史と実践』金田・小峯訳(教文館2012年)

  自由祈祷から成文祈祷へ(初代〜中世)

  成文祈祷の押し付けに対する反発(宗教改革〜近代)

  成文祈祷の再評価と両立

3.改革派教会の礼拝と祈祷

  日本キリスト改革派教会『式文』

  いわゆる牧会祈祷(説教前の祈祷)

  聖霊の照明を求める祈り

  祈祷の種々とその位置

4.公的祈祷のささげ方

  共同の祈りを代表して祈る

  祈祷文を用いるか・自由な言葉で祈るか

  誤った実例と注意点

5.祈りを学ぶ方法

  祈祷文を参照する

  祈る習慣をつける

  教会についての理解を改めて吟味する

礼拝における祈祷について

 

祈祷と礼拝

 3月の合同学習会では「礼拝における賛美について」一緒に学びました。今年は礼拝が一つのテーマですので、今回は「礼拝における祈祷について」実践的なことこもごも学んでおきたいと思います。

 祈祷-祈ることは宗教のまさに宗教性なるものの核心に当たるものですから、祈らない宗教というのも珍しいのではないかと思います。大江健三郎さんの『人生の習慣』というエッセイ集の中に「信仰を持たない者の祈り」という優れた文章があります。大江さんは、自分は神を信じて祈ることはできないのだけれども、障碍を持って生まれた息子の成長を見ていて、啓示にも近い出来事に触れたことがある。その時に、魂の深い底で祈りに近い思いを抱いていた自分に気づかされ、人間には誰しもそうした祈りがあるのではないか、と、とても深い洞察を語っています。そういう人の魂から発せられる根源的な求めに対して、神が憐れみをもって答えてくださることはあるのだと思います。イエス・キリストがまさにその答えなのですから。けれども、そうして祈りを普遍化してしまいますと、今日ここで話す祈りとは別の問題になってしまいます。今日の話は、礼拝と祈りについてです。つまり、礼拝行為としての祈りがテーマです。そして、キリスト教会の礼拝は、初めから人の心の中に備わっていた信心が形をとって現れたものではなくて、神の求めに応じて神の民の中に形を整えられていったものです。これには聖書を絡めての歴史的な考察を加えることができますが、今日はいたしません。

 私たちの礼拝の根拠は、神にあり、そして、神から示された御言葉に基づいて礼拝の形式も用意される、ということが基本にあります。つまり、私たちの礼拝は聖書の規範に従います。ですから、全知全能の神に向かって、私たちの方で何がしかの礼拝方法を真剣に考えて行えば、すべて礼拝として認められる、という風には考えません。たとえば、十戒の中に「刻んだ像を造ってはならない、それを拝んではならない」とありますね。像を用いた礼拝を禁じられているわけです。それを旧約聖書の時代ばかりではなくてキリスト教会も重んじて礼拝をささげて来ています。礼拝には聖書の基準がある。ですから、祈りについて考える時にも聖書の基準というものがあります。大江さんの考える「祈り」とは意味が違います。

 礼拝との関係で考えますと、祈りは礼拝の一部の要素と捉えられますけれども、祈りは礼拝の最小単位だと見ることもできます。礼拝の諸要素をぎりぎりまで切り詰めて最後に残るのは何かと考える時に、聖書朗読と祈祷だとはよく言われることです。祈りに先立つのは御言葉である、という原則からすればその通りですが、おそらく、必ずしも聖書を開かなくとも、心に蓄えた御言葉・主イエスを頼りに、祈りに向かうことが個々人にあろうかと思います。そうした祈りは、個人による礼拝行為として十分に認められる。聖書では心のない礼拝が厳しく批判されています。反面、心を注ぎだして神の前に立つ祈りについては幾つもの模範となる例があります。丁度この間午拝で学んだ「ハンナの祈り」もその一つですね(サムエル記2章1〜10節)。主イエスのゲッセマネの祈りもそうです。ですから、祈りとはまさに礼拝そのものであって、礼拝の心であるといえます。

 そこで、祈りの形について考えるに当たって、礼拝に個人の礼拝と共同(公同)の礼拝があるのとに従って、祈りについても共同の祈りと個人の祈りとを区別するのがよろしいと思います。『礼拝指針』もその点を明確にしています。個人の祈りについて言えば、形式的には自由で構いません。祈りの心構えについては学ぶところがありますけれども。しかし、自由に自分の言葉で自分の関心を祈ることができると思います。それに比べますと、共同の祈りは、そうはいかない点が出てきます。共同で祈るのですから、祈り手は会衆を代表するわけです。一人の代表ではなくて複数の人間で祈る時もですね、互いに心を一つにして、天の神に言葉をささげるのですから、そういうものとして成り立つ祈りを心がける必要があります。

 

聖書の模範

 そこで、簡単ではありますが、礼拝の中での共同の祈祷-公同の祈りがどのように形成されていったかを辿ってみたいと思います。

 聖書では代表的な例を挙げると、列王記上8章に「ソロモンの祈り」があります。ダビデの悲願であったエルサレム神殿が完成して、そこに契約の箱を安置する際に、イスラエルの全会衆が集う前でソロモンが長い祈りをささげます。この場面全体が礼拝式になっていますが、祈りは23節から始まって53節に及びます。この「ソロモンの祈り」に見て取れる祈祷文の構成の仕方は、賛美と感謝に始まり罪の告白と赦しにつながり、民のとりなしの祈願がなされるという、一定の型をもっています。これは聖書の膨大な祈祷集とも言える『詩編』の祈りにも共通のものを見いだすことができます。

 『詩編』には個人の祈りと共同の祈りのどちらもが含まれます。そして、それらを完全に区別することは難しくて、個人の祈りが途中で共同体の祈りになっていたり、終わりまで個人の告白にしても、それを共同で祈ったであろうということも考えられます。また『詩編』の用いられ方を考えると、共同体の祈りを個人の祈りにも用いることもできました。ですから、個人の祈りと共同体の祈りを、それがささげられた状況では区別されるものの、聖書から学ぶ祈りの文面では必ずしも区別できません。どちらにしても、『詩編』の祈りや、その他、聖書に散りばめられた祈りが、教会の祈りの模範となるのは確かです。そして、そこには一定の型が認められます。

 そこへ新約聖書の「主の祈り」が登場します。ルカとマタイではそれが伝授される状況が違っていますけれども、文面は一緒です。主の祈りは、詩編の祈りと比べても、当時のユダヤ教徒たちが用いていた「十八連祷」という祈りに比べても極めて簡潔なのが特徴です。そして、『マタイによる福音書』によれば、「くどくどと祈るな」とイエスが教えておられて、それに続いて、この簡潔な「主の祈り」が与えられたというのですから、キリストの弟子たる教会にとっては、「主の祈り」こそが祈りの規範になります。

 ここで聖書の祈りの模範に基づいて、祈りの言葉を考えてみますと、文体としては詩文が中心で、神の名、賛美、感謝、告白、祈願などが、神に向かって一方的に呼びかけられます。祈りは神との交わりであり対話だと言われますけれども、正確に言うと神が人に語られる仕方は御言葉を通して-旧約ですと預言者ですが-語られるのでして、それに応える方式が祈りになるわけですね。祈りだけで対話が成り立っているわけではない。神が必ず聞いていてくださるという確信から、また、聖霊が祈り手の心に働いているという信仰から、これが対話だということはできるのですけれども。しかし、実際は、祈りはこちらからあちらへ言葉を発する行為ですね。言葉を神にささげている。聖書の祈りは、ですから、ささげものに等しい。旧約の民は牛や羊をささげて、罪の赦しを願ったり、満願成就を感謝したりする仕方が、神殿での礼拝に備わっていました。神殿を失った、または、それを必要としない新たな時代には、神へのささげものはもっぱら祈りを通して、言葉と心のささげものとして、神に向かうものとなったわけです。

 たとえば、主の祈りから考えてみますと、中心はすべて祈願ですね。「願わくは、御名を崇めさせ給え」「我らに日用の糧を今日も与え給え」。これらの願いをするにあたって、私たちは無償でそれを要求するんでしょうか。旧約時代には、真剣な願いを神から求めるに際しては、牛や犠牲のささげものをして、きちんと報酬を神にささげることが求められました。「ハンナの祈り」もそうですね。子どもをくださいと泣きながら願いましたけれども、もしも願いが叶えられたら動物の犠牲をささげますという誓いをしたわけです。それでサムエルが生まれてから、誓った通りの犠牲をささげました。私たちはどうでしょうか。主の祈りにしても、自由な祈りにしても、願いっぱなしです。では、私たちの側から神にささげられている報酬は何かと言えば、キリストの犠牲です。イエス・キリストが私たちのためにご自身を神にささげてくださったので、私たちはもはや犠牲を求められることはない。そこからしますと、私たちの祈りは、主の犠牲を伴った神へのささげものです。感謝や告白や願いを述べるのですけれども、それは私たちの魂のささげものとしてキリストと一緒に神の元に届けられる。ですから、祈りについて考える時には、私たちはどのようにして言葉と心を神にささげるかを考えなくてはならない。たぶん体もそうですね。跪くのはひれ伏すのか、ということも本来は関心に入ることだったはずです。このように聖書から私たちが学ぶ祈りの形は祈願にせよ告白にせよ献身の表明であって、対話というような中立的なものではありません。ここからすると大江さんの仰る祈りともまた別だとわかると思います。

 

礼拝の中での祈祷

 さて、キリスト教会が出来てからも、信徒たちはいきなりオリジナルな形の祈祷を発展させたのではなくて、ユダヤ人の伝統に頼りながら、詩編を用いたり、自由な祈りをささげたりした模様です。イスラエル民族の祝福を祈る「十八連祷」などは主の祈りに置き換えられて、伝統に束縛されない形で発展していったのでしょう。本当に初期の頃の様子は聖書以外に手がかりがありませんから、推測する他はありません。それでも2世紀から4世紀にかけて、定型の祈祷文が現れます。それまでは、礼拝の中で信徒や司牧者が祈る自由な祈祷と、おそらく各教会で形成された共同の祈祷文とが混合した形で用いられたようです。この期間に発展した祈りは「執り成しの祈り」だと言われます。執り成しの祈りは、様々な弱さをもった人のため、為政者のため、すべての民族の救いのため、と教会の内外のために広く祈られます。2世紀の教父ユスティノスが書き残した文書によると、礼拝では説教の後と聖餐式の前の間にこの祈りが祈られたようです(オールド『改革派教会の礼拝』174頁)。

 中世になると礼拝の形式化が進むと同時に、祈祷は内面的に深められて瞑想的になり、執り成しの祈りのような会衆の祈りは失われます(同上、175頁)。そこで会衆の祈りを取り戻したのが宗教改革の運動になります。宗教改革が進められていく過程では、従来の祈祷文が自国の言語に翻訳されたり、古代の祈祷文が再発見されてして、祈りの新しい形が求められていったと言いますが、そこで定着して行った祈りの型とは、罪の告白と赦しの宣言、そして執り成しの祈りでした。また「詩編歌」が作られて、歌う祈りとして賛美に用いられるようになります。

 この時期の祈りの特徴は、自由な形式の即興祈祷と定型的な祈祷文との併用です。即興祈祷とは言ってもそこに独創性ですとか創造性を求めたのではなくて、聖霊の聖化を願って、祈ることにおいて成長するためだと言われます(同上、178頁)。

 一つの長い祈祷がぽつんと礼拝の真ん中におかれる、いわゆる「牧会祈祷」の始まりは、ピューリタンの会衆派から始まります。『ウェストミンスター礼拝指針』はこの祈りの仕方を支持していますが、それはスコットランド長老教会がピューリタンに妥協したためだそうです。今、この辺りの歴史をお話しするのに参照している『改革派教会の礼拝』という書物を著したオリファント・オールド博士によりますと、『ウェストミンスター礼拝指針』の牧会祈祷には弱点がある、と三点あげています。まず「第一に、それは最も成熟したキリスト者にだけ益となる、我慢できないほど長い祈祷を生み出した」(同上、181頁)。そして、第二に、古くから伝えられてきた礼拝順序を変えたために、執り成しの性格を減退させ、「一般的なすべての目的を祈る祈祷となった」。そして、第三に、牧師の賜物に依存することによって、牧師の怠りから一般信徒の倦怠を招いたこと。

 自由祈祷を推進したのはスコットランドの長老派だと思っていましたが、オールド教授の指摘はそうではなくて、先に述べましたようにピューリタンの会衆派だとのことです。それに長老派は妥協して行った。スコットランド長老教会は、英国国教会から押し付けられた礼拝書を激しく拒んだのですけれども、成文祈祷を拒んだわけではない、と言います。祈りの形式について言いますと、長老教会では伝統的な成文祈祷を保持しようとした。けれどもその後、『ウェストミンスター礼拝指針』に見るような包括的な牧会祈祷に妥協し、その後、プロテスタント教会では啓蒙主義時代の敬虔主義の流れが生まれて、個人的で即興的な祈りが奨励されて、今日の福音主義諸教派では、自由祈祷が主となった、ということです。

 近年ではカトリック教会での礼拝刷新に刺激されて、プロテスタント教会が礼拝への取り組みを深める中で、改革派・長老派の諸教会もリタージーの見直しを進めるようになりました。私たち日本キリスト改革派教会でも、だいぶ時間をかけて式文の改訂作業を行っています。そこで今日の潮流では、成文祈祷と自由祈祷の両立をはかるようになっています。流れからすれば、もっぱら自由祈祷であったところを、成文祈祷の豊かさをもう一度取り戻して、礼拝に霊的な刷新をもたらそうとしています。これは、プロテスタント諸教派から出されている礼拝書や祈祷文集を見ていただくのが一番よいかと思います。

改革派教会の礼拝と祈祷

 ここで私たちが今執り行っている礼拝式を振り返ってみます。日本キリスト改革派教会には、『礼拝指針』と『式文』の両方が備わっていて、礼拝を行う際の基準となっています。スコットランドの長老派の伝統では、イングランドの式文を拒否しましたので、礼拝指針だけを定めて式文は用いません。方や、大陸の改革派の伝統では、式文を用いて礼拝指針は持ちません。現在の改革派・長老派教会においても、そのどちらかであるのが普通です。例えば、北米キリスト改革派教会(CRC)は式文を用いません。また、合衆国長老教会(PCUSA)には礼拝指針がありません。私たち、RCJは、礼拝に関してその二つを同時に持つ珍しい教派です。

 教会憲法に属するのは『礼拝指針』ですから、『式文』には拘束力はなく、それをお手本にして実践すればよい、というほどのものです。また、『礼拝指針』にしても、それはあくまで「指針」であって規則ではないので、その規定する範囲については流動的です。

 私たちの『式文』には現在、二つの礼拝式順が用意されています。西神教会が用いているのは、主日礼拝の式順の(2)に相当します。ただ、長谷川先生の時代にこれは手を入れているようですので、若干の違いが認められます。この礼拝式順の中に「牧会祈祷」が含まれています。先ほどお話ししましたように、これが説教前の祈りとしてピューリタンの教会で定着した方式です。これは礼拝式の(1)の方がより顕著かと思います。説教前に教会の全般的な祈りをそこでまとめて祈るわけです。式順の(2)ですとか、西神教会の方式では、「罪の告白と赦しの宣言」がありますから、その要素が牧会祈祷とは分離した形です。これを行わない場合は、それも牧会祈祷に含めて行います。もう一度振り返りますと、この分離した形が長老教会の伝統で、宗教改革期にさかのぼるより古い形式です。

 牧会祈祷は、必ずしも牧師によって祈られては来ませんでした。私が育った教会では長老が担当していたように思います。西神教会でも午後の礼拝では長老に祈っていただいています。礼拝の祈りが一箇所に集中するこの形では、教会の牧会に責任を負う牧師・長老が祈るのがふさわしいと言えましょう。これが「説教前」になされるのは、罪の告白がそこに含まれているのと、聖霊の照明の祈りが含まれているからではないかと思います。これがカルヴァンの時代の礼拝式ですと、祈りの諸要素が分散されて各所に配置されます。そちらが古い方式であることは先にお話ししました。

 祈りの諸要素のうち、カルヴァンが重んじたのは「聖霊の照明を求める祈り」だと言います。私たちも今、「教会の祈り」の終わりにその祈りをささげています。「主よ、どうか、あなたのみことばと聖霊により、私たちをお導きください」という部分です。これは、カルヴァンの礼拝式順ですと説教の前に短く祈られる祈りでした。

 今日、礼拝式の見直しがなされる中で、この祈りの配分の仕方もまたピューリタン以前の宗教改革の、または、古代教会の方式が取り入れられるようになって来ています。それはカトリック教会の模倣ではないかと言われてしまうのですが、そういうつもりではなくて、罪の告白があり、聖霊の照明を求める機会があり、執り成しがささげられる、という祈りのそれぞれの要素が礼拝の中で大切に扱われるように、ということなんだと思います。牧師や長老が説教前に長大な祈りを、しかも自由祈祷によって祈るときに、祈るべきことが祈られなかったり、短縮されたりということは十分にありえます。またそれを牧師や長老の個人的な賜物に全く委ねてしまうよりも、それぞれ別個に罪の告白をなし、聖霊の照らしをいただき、教会と世界のために執り成しをささげることは、それらの祈りに信徒が実質的に参与するよい機会となるのではいかと思います。

 新しい礼拝の順序についてはカルヴァンの礼拝式や合衆国長老教会の礼拝式、近年のスコットランド長老教会の礼拝式を比べてみるとよいと思います。また、まもなく大会憲法委員会第3分科会から新しい式文が出されます。そこには、主日礼拝の式文だけでおよそ5つぐらいの事例が含まれているはずです。

 詳しい説明は今日は時間がありませんからできませんが、一つ触れたいことは「執り成しの祈り」についてです。これが今日注目されている礼拝式の特徴の一つです。カルヴァンの礼拝式を例にお話ししますと、主日の礼拝が「み言葉のリタージ」と「二階間のリタージ」の二部構成になっていますね。これは古代教会から受け継がれている礼拝式の基本形です。み言葉のリタージとは聖書朗読と説教が中心になっていて、古代では未信者もここに招かれて一緒に御言葉を聞きました。そして、「二階間のリタージ」とは、今日で言えば聖餐式のことで、本当に二階間で行われたこの第二部には未信者は入ることが許されませんでした。二階間の入り口には門番が剣を持って立っていたと言います。伝統的な礼拝式はこのような二部構成になっているわけです。

 そこでカルヴァンの礼拝式では、説教が終わると聖餐式になるのでして、その始めに「献げ物の収集」が行われます。これは、今日で言えば献金に当たる部分です。「献げ物の収集」とは、聖餐に用いられるパンと葡萄酒も含みますが、それ以外の支援物資が持ち寄られて、貧しい兄弟姉妹に分配されるためのものでした。それを集めて、主にささげて、続いて「執り成しの祈り」がささげられるわけです。

 ですから、献金の後の祈りを私たちもささげていますけれども、この流れからしますと、献金によって主へのささげものを果たして、私たちの献身の誓いがそこでなされるばかりではなく、それらのささげものが意味する、主の愛の業の一環の中で、「執り成しの祈り」がなされるわけです。そして、祈りの最後に、主の祈りが、神の国を願う祈りとして、締めくくります。

公的祈祷のささげ方

 さて、ここから私たちが公的礼拝で祈る場合の実践的な問題に入っていきたいと思います。まず、祈りはささげものである、ということを始めに申しました。ですから、祈りの言葉についてはよく吟味されることが大切です。そうすると祈れなくなってしまうとの恐れも出てくるでしょうけれども、祈りを学んで習熟することに積極的でありたいと思います。

 皆さんが公同礼拝で祈る機会は、今は献金の祈りをおいて他にありませんが、献金の祈りを例としてお話しすることにします。まず、そこでは礼拝をささげている教会全体を代表して祈りますので、そのことを念頭に、「わたしたち」として祈る心構えを持ちたいところです。平易な言葉で簡潔に、感謝と献身の思いを神の御前に述べます。献金は執り成しの祈りをささげる機会だとお話ししましたが、今はそのような取り組みをしていませんから、感謝と献身の告白で十分です。

 数年前から受付には献金感謝の祈祷文を用意しています。これは、どう祈ったらいいかわからない時に参照していただくための例です。書かれた祈りでは祈りにならないと考えるのは間違いです。主の祈りは歴とした祈祷文ですけれども、祈りにおいて大切なのは言葉と思いとを一つにすることです。祈りを文書にすることは大切で、必要なことを適切に順序立てて、皆の前で口にするのにふさわしい言葉で祈るには、文章にすることが有効です。祈りに習熟してきますと、お手本を参照しないでも自由に祈ることができるようになります。ただ、自由に祈る場合には、献金祈祷の意味を十分に弁えた上で、適切に祈ることが求められます。勝手に自分の思いであれこれの願いをつけ加えたりしないことが肝要です。

 一般的には、祈祷文や祈祷書を用いて祈るか、自由な言葉で祈るかは、その状況にもよります。ただ、祈祷文にだけ頼るようになりますと、自分の言葉で祈ることが難しくなります。これはある聖公会の教会の司祭がそう言っていました。また、自由な言葉で祈ることに慣れている人は、一度、カトリック教会や聖公会の祈祷書を見たらよいかと思います。実に無駄のない、美しい言葉で、祈りがささげられています。公的な祈祷文に関して言えば、多弁なものは殆どありません。

 公的な場での祈りですけれども、礼拝の時ばかりでなく、共同で祈る場合はやはり公的な場になります。祈祷会での祈りや、月に一度の全員祈祷会でなされるのも公の祈りです。ですから、今お話しした言葉の吟味は同じように当てはまります。この場合の祈りには、しかし式文を用いることはありません。皆が自分の言葉で祈ることになっています。その際に、自分で吟味せよと言われても難しいことかも知れませんが、心構えとしてだいたい以下のことを覚えておけばよろしいかと思います。

 まず、何よりも簡潔に祈ることです。丁寧な言葉で語ろうとするとどうしても表現が長くなりがちですが、それでも、あれこれ飾り言葉を用いないで、まっすぐ祈ればよろしいと思います。そして、共に祈る目的は、教会に共通の課題について祈り願うことです。個人的な祈りをそこに挟まない。個人的なことを祈ってほしい場合もあろうかと思います。そういう時は、誰かにお願いして、牧師でももちろん結構ですけれども、そういう個人的な場で祈るようにします。それから、祈りを聞いていてよく思うのですが、祈りは神への語りかけですね。誰に語っているのかをいつも念頭おかないと、目をつぶって演説することになってしまいます。一緒にいる兄弟姉妹に聞こえないと仕方ありませんけれども、それらの人に向かってお話しするのが目的ではないはずです。すべてをご存知である神に、あえて、私たちの願いを申し上げるのですから、簡潔に、神に求める言葉が、出て来るはずです。

 もう一つ重要なこととしては、祈りの中で誰かの執り成しをする場合です。祈りの中でそこにいたり・いなかったりする兄弟姉妹のことをあげつらわないように注意することです。心の中にあることをぶちまけたい時には、まずは一人で神に向かって祈るべきでしょうし、それでも収まらない時は、本当に信頼できる信仰の友に打ち明けて一緒に祈ってもらえばよろしいでしょう。

祈りを学ぶ方法

 さて、最後に、どのようにして祈りを学んだらよいか、という点で幾つかのことをお話ししておきます。まず、昨今では祈りについての研究書ばかりではなく、祈りの例文集とも言える本がいくつも出されています。先週、キリスト教書店へ出かけましたら、加藤常昭先生の『祈り』という書物が出ていましたけれども、どうやら牧会祈祷を集めて一つの本にしたもののようでした。そうした現代の牧師のものの他にも、先に紹介しましたカトリックの祈祷書や聖公会のものなど、教派を超えて見渡せば、祈りの参考になる文書は多数あります。古い翻訳のものなどは日本語が古いので実用には向いていないかもしれません。

 そういうお手本をではどう用いるかといえば、ざっと読んでみても勉強にはならないのだと思います。実際にそれらの文集を実例を用いて自分で祈ってみる。できれば、声に出して祈ってみると、祈る言葉にも敏感になれますし、祈った言葉が自分の言葉になることもあります。ともかく、礼拝というものは頭で理解しようとしても限界がありまして、実際に、自分の体を神の御前に据えてみないと、会得できない面があります。祈りもそうでして、実践することこそが習熟への道です。

 公的な祈祷をささげる、つまり、人前で祈ることができるためにも、個人で祈る習慣ができていませんとなかなか捗りません。成文祈祷を用いれば大丈夫だ、という安心感もあるかもしれませんが、やはりここは個人で自由に祈れることも大切だと思います。祈りは見よう見まねで徐々に覚えて行くものですけれども、その気がなくては本当に覚えることはできません。聖書を読んで、そのみ言葉に促されて祈る、個人の祈りの生活が祝福されれば、人前で祈ることも恐れるに足りません。むしろ、人前で祈って、普段は祈っていないことがバレてしまうのが怖い、ということはあるだろうとおもます。

 そして、祈りが適切になされて、共同の祈りの豊かな祝福に与るためには、祈りの共同体である教会についての理解を深めることでしょう。今回、祈祷会で学んだD.ボンヘッファーの『共に生きる生活』からは、祈る心を一つにするキリストの体である教会の、実に豊かなヴィジョンが与えられました。代表者が交わりを代表して祈るとき、そこには共同体全体の委託があり、同時にその祈る兄弟姉妹を支える執り成しが全体から寄せられている。そうして、お互いの欠けを互いに補い合って、神に向かう一つの祈りが成立する。私たちは、祈りにおいて、キリストに結ばれた教会の恵みを学びます。教会の内に働く聖霊の息づかいを共に聞くわけです。自分一人の思いや悩みに沈み込むときに、私たちの祈りは激しい熱を帯びるかも知れませんけれども、神との結びつきは消え入りそうです。しかし、兄弟姉妹と離れてはいても教会に結ばれていることを感謝して、その祈りの交わりに支えられて祈ることは、キリストの確かさの故に心強いものです。

 共に祈る恵みをこれからも深めていきたいと思います。祈祷会にももっと多くの兄弟姉妹が出席されることを願っています。祈祷会を通じてE姉やU兄が導かれましたけれども、共に祈ることによって教会は交わりを強化され、霊的に成長させられます。西神教会も祈りの宮として祝福されることを願って、共に祈る交わりを大切にしてゆきたいと思います。

 

祈り

天の父なる御神、私たちはあなたの深く大きなみ旨を知り得ず、あなたに祈る言葉を持たないものではありますけれども、福音を通してみ声を聞いたときから、私たちはあなたを信頼する心が与えられ、拙いながらも言葉を発することができるようにされました。どうか、み旨に叶う言葉で祈りをささげ、私たち自身をあなたにおささげし、キリストの体に結ばれていることの喜びをいつも感じていることができるように、私たちに聖霊の助けを御与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

お問い合わせ

電話・ファクス 078-992-6658

神戸市西区糀台2-20-7

牧師 弓矢健児 (ユミヤケンジ)

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