礼拝における賛美について

2015年度第1回合同学習会 3月15日(日)午後1時〜2時半 

《レジュメ》

1.公的礼拝における賛美

  「礼拝指針」第3章「公的礼拝の規定」第9条

  「礼拝指針」第8章「公的礼拝における詩編歌と讃美歌の歌唱、および音楽」

  旧「礼拝指針」第10条

  詩編102編18〜23節

2.礼拝にふさわしい音楽

  「礼拝指針」第23条・第24条

   申命記31章19節

3.教会史における音楽

  楽器の使用に否定的な初期キリスト教

  アモス書5章23節、コリントの信徒への手紙一13章1節

  中世における声と言葉による音楽の完成-グレゴリオ聖歌

  宗教改革と音楽:ツヴィングリ・ルター・カルヴァン

  オルガンによる教会音楽の完成-J.S.バッハ

  「礼拝指針」27条:楽器の使用について

  「礼拝指針」25条:礼拝全体の調和 ← 旧「礼拝指針」12条:説教の精神

3.賛美と祈り

  賛美:神の御業をたたえて、その恵みに感謝を表すこと。

  祈り:私たちの困窮を訴えて、神の助けを願うこと。

  言葉の形式としては賛美と祈りには区別がない。

   例:『詩編』、「賛美歌集」における「主の祈り」「使徒信条」

  内容の区別に注意して礼拝式を構成する必要。

4.賛美歌集の選択

  日本基督教団『讃美歌』(1954年)

    〃   『讃美歌21』(1997年)

  大会推奨讃美歌一覧(1961年第16回大会、全284曲)

  憲法委員会第3分科会編『日本語による150のジュネーブ詩編歌』(2006年)

  『讃美歌』が用いられる理由

  『讃美歌』の問題点と『讃美歌21』における改善

   1)共同体の賛美・祈りの貧しさ(← 情緒的・内面的・個人的)

   2)言葉の難しさ:中高生へのアンケート(1982年)

     天皇制に関する語彙

     参考:石丸新『賛美歌にあった「君が代」』新教出版社、2007年。他。

   3)歌詞と信仰告白

     榊原康夫「嘘の賛美歌」、『私たちのささげる礼拝』35頁。

     エキュメニズムと信仰告白(教会憲法:ウェストミンスター信条)

     エミリー・ブリンク(CRC)「賛美歌集は一世代に一つ」

  無教派主義の『讃美歌』『讃美歌21』の是非

   『讃美歌第2編』(1967年)、『ともにうたおう』(1976年)

5.賛美歌の用い方

  ゴスペルの効用:山内修一『友よ歌おう』(1976年)〜 *情操教育として

  テゼ共同体の賛美歌 CD: Taize Community “Songs of Taize”, etc.

  大会の動き:憲法委員会第3分科会の取り組み

6.楽器の選択

  オルガンの使用について

   『ウェストミンスター信仰告白』1・6

  北米キリスト改革派教会(CRC)による礼拝シンポジウムの試み

  オルガニストの確保と養成

   オルガニスト不在ならばアカペラ/最終手段はヒム・プレーヤー

7.会衆賛美の実際

  奏楽の役割:「礼拝指針」第27条「会衆賛美の助け」-テンポ、音量

  会衆の賛美の仕方:声を聴き合う-会衆の一致

  パートをとること:基本は斉唱(カルヴァンの実施)

   4声の楽譜(スコア)-歌う場所の問題:家庭、学校、舞台、等。

   神へのささげものとして:言葉を歌う/練習の必要/聖歌隊

    ヘブライ人への手紙3章15節

  歌が苦手でも良い(向上心をもつことは大切)

8.その他の課題

  賛美歌と伝道:神の民の証である賛美=主の栄光を歌うことによる証

   伝道のための音楽ではなく、音楽そのものが神の栄光を表す

   例:J.S.バッハ、U2

  賛美歌と信仰の継承

   米国における「礼拝戦争」-賛美歌に見る世代間の溝

   CRCの解決法-ブレンド方式

   新しい賛美のかたちを求め続ける努力

 

《参考図書》

加藤常昭、他『教会音楽ガイド』日本基督教団出版局、1975年。

越川弘英、他『教会音楽ガイド』日本基督教団出版局、2010年。

横坂康彦、他『講座 日本のキリスト教芸術1音楽』日本基督教団出版局、2006年。

越川弘英『今、礼拝を考える』日本基督教団出版局、2004年。

今橋朗、他『キリスト教礼拝・礼拝学事典』日本キリスト教団出版局、2006年。

松谷好明訳『ウェストミンスター礼拝指針』一麦出版社、2011年。

オールド『改革派教会の礼拝-その歴史と実践』金田幸男・小峯明訳、教文館、2012年。

榊原康夫『私たちのささげる礼拝』日本キリスト改革派東部中会信徒修養会、1995年。

など。一般的な読み物として…

芥川也寸志『音楽の基礎』岩波新書、1971年。

寺西春雄『音楽史のすすめ』音楽之友社、1983年。

安田寛『唱歌と十字架-明治音楽事始め』音楽之友社、1993年。

ゲオルギアーデス『音楽と言語』木村敏訳、講談社学術文庫、1994年。

岡田暁生『西洋音楽の歴史』中公新書、2005年。

岡田暁生『音楽の聴き方』中公新書、2009年。

 

⬛︎ 資料

〈「礼拝と教会活動に関する指針」(2009年)〉

 前文 神のわざと民の応答

 神は、わたしたちを御自身の民として選び、交わりを求め、礼拝と活動を通して御自身に奉仕するように召しておられる。したがって、わたしたちは教会生活とキリスト者個々の信仰生活を吟味して、すべての者が神の命令に従う神の僕として生きることができるようにされる。

一、キリスト者の礼拝は、父・子・聖霊なる神御自身と、神がわたしたちとわたしたちの救いのためになしてくださった事柄とに依拠し、またそれらへの応答としてなされるものである。神はわたしたちを招き、臨在し、御言葉と礼典を通して救いの恵みを提供し、教会員ひとりひとりを弟子として世に派遣される。わたしたちは賛美・告白・感謝・祈願・服従などの行為によって神を深く心に留める。

 わたしたちは、礼拝の時と場所を定め、信仰・希望・愛および献身を共にする信者の群れとして公的に神を礼拝する。また、キリスト者は、個人および家族として神を私的にも礼拝する。わたしたちは、日々の生活において、自分自身を聖なるささげものとしてささげ、キリストの体の一部として礼拝するのである。

 

 第1章 主の日

 第5条(主の日と神の民の特権)

 主の日に、神への公的礼拝にあずかることは、キリストが求めておられる奉仕であり、すべての神の民の特権である。

 

 第3章 公的礼拝の規定

 第9条(公的礼拝の要素)

 公的礼拝は、御言葉による招きと祝福(祝祷)、神の民の音楽と歌唱による賛美・祈り・信仰の告白・罪の告白と赦しの宣言・聖書朗読・神の御言葉の説教・ささげもの・洗礼と聖餐の礼典の執行、報告(公的告知)などからなり、御言葉にしたがい、さまざまな礼拝の要素をもってなされる。

 

 第8章 公的礼拝における詩編歌と賛美歌の歌唱、および音楽

 第23条(詩編歌と賛美歌)

 キリスト者は、公的礼拝において、詩編歌や讃美歌その他、礼拝にふさわしい歌を歌うことをもって神を賛美する。

 第24条(公的礼拝における音楽)

 教会における音楽は、神への礼拝に仕えるためのものである。音楽の賜物をもって仕える者はよい準備をして奉仕する。牧師と小会は音楽奉仕者のために配慮する。

 第25条(牧師の指導と小会の責任)

 牧師は、詩編歌や賛美歌および音楽が礼拝全体と調和するように指導する。また、牧師と小会は、音楽担当者と聖歌隊に対して責任を持ち、会衆が礼拝に十分にあずかるために必要な備えをする。

 2.詩編歌と賛美歌は、会衆の祈りであり賛美である。会衆が理解をもって歌うことができるように、礼拝で歌う歌は前もって知らされることが望ましい。

第26条(音楽の賜物)

 音楽の賜物を持つ者が礼拝の音楽を指導する場合、牧師と小会の監督のもとで行なう。

第27条(礼拝における楽器)

 楽器は、礼拝にあずかる会衆の賛美の助けとなるので、歌と共に用いられる。牧師と小会は楽器の使用にあたっては、楽器の種類を適切に選別する。

 

〈旧版「礼拝指針」〉

第2節 詩篇と賛美歌

第10条(礼拝行為としての音楽)

 音楽によって神を賛美することは、義務であり、また特権である。従って、賛美歌や詩篇を歌うこと、また楽器を使用することは、公的礼拝の重要な部分である。

第11条(賛美の態度)

 賛美歌は、歌詞を理解し、礼拝の精神をもって歌わなければならない。全会衆がこの礼拝行為に参加できるよう、充分に配慮することがのぞましい。

第12条(歌の選択)

 古い衆知の賛美歌とともに、新しい賛美歌も歌うことがのぞましい。しかし、新しい賛美歌の選択には注意しなければならない。賛美歌は、賛美の調子を有し、説教の精神と一致しなければならない。

第13条(指導者と聖歌隊)

 賛美歌の歌唱指導は、小会の判断にまかされる。小会は、歌唱指導者を選任するにあたり、その人の品性を考慮しなければならない。また、聖歌隊の合唱が、会衆の合唱にとってかわってはならない。

第14条(賛美の時間)

 賛美にあてられる公的礼拝の時間の長さは、教師の判断にまかされる。会衆が詩篇や賛美歌を歌うことは、奨励されなければならない。

 

礼拝における賛美について

 

公的礼拝における賛美

 今年、私たちは「礼拝」に関心を持ちながら教会の歩みを進めるということを年間標語に盛り込みましたので、今日は礼拝の中の「賛美」という要素に焦点を絞って学びたいと思います。オルガン購入のための基金を募ることも丁度始まったところです。どのようなオルガンを選ぶか、というところも考える上で、そもそも何故オルガンなのか、礼拝での奏楽はどうあるべきなのか、賛美歌はどうして選ぶのか、と色々と大切なことが絡んできます。「賛美」という一つの要素について考えるにしても、関連事項は実に豊富ですので、なるべくコンパクトにまとめてお話ししたいと思います。以前、私が赴任してまいりました初めの学び会の時に、『ジュネーブ詩編歌』の話をしたことがありましたが、その機会に改革派教会の賛美歌への取り組みについても歴史的なことを少しお話ししています。ですから、その部分は、今日は割愛します。ホームページに講演録がありますから、またご覧になっていただければと思います。

 お話ししたいことは沢山あるのですけれども、私たちの教会には『教会規定』の中に「礼拝指針」がありまして、そこで礼拝の中での賛美のあり方についても大枠が示されています。それを無視して話を進めても混乱しますので、そこに書かれている指針を手がかりに、少し内容を補いながらお話しします。お手元に資料としてお配りしたものをご覧ください。

 まず、「礼拝指針」第3章に「公的礼拝の規定」がありまして、第9条に礼拝の要素が列挙されています。それをご覧いただきますと「神の民の音楽と歌唱による賛美」と賛美を歌うことが明確に位置付けられています。注意深い言葉遣いで、ここには賛美の内容がすでに示されています。賛美が「歌唱」であるということは、私たちは経験上よく知っていますが、「音楽と歌唱」と言われます。ですから、歌う場合ではない賛美の仕方があるということです。これはオルガンの奏楽がそうだろうと察しがつくわけですが、後で見ますように第8章の詳細な規定でも「オルガン」とは限定されていません。ですから、ここは賛美歌に関わらず、音楽が礼拝に用いられることが言われているわけです。

 それから、「神の民の…賛美」とあります。教会が前提となっているわけですね。キリストに結ばれた民の、キリストへの信仰に基づく神賛美が、音楽と歌によって神にささげられます。これは賛美について考える上での重要なポイントです。歌唱も演奏も共同体の礼拝として行われます。

 そして、「御言葉にしたがい」と終わりの方にありますが、聖書の規範性が礼拝全般にかけられています。詩編歌のように聖書の御言葉を直接歌うばかりではなくて、賛美歌を作ったり選んだり、それを演奏したりする場合にも、公的礼拝で行われる賛美は聖書の教えに則ったものである必要があります。

 そこで、「礼拝指針」第8章の「公的礼拝における詩編歌と賛美歌の歌唱、および音楽」とあるところをご覧ください。第23条には「詩編歌と賛美歌」とありまして、「キリスト者は、公的礼拝において、詩編歌や讃美歌その他、礼拝にふさわしい歌を歌うことをもって神を賛美する」となっています。賛美をするのは当然である、というような言い方ですが、旧い「礼拝指針」の第10条では「音楽によって神を賛美することは、義務であり、また特権である」とありまして、この方がはっきりとものを言っています。「義務であり、特権である」と聖書から教えられている、ということです。

 例えば、詩編102編19節に「主を賛美するために民は創造された」とあります。これは、音楽は人間に本質的なものだ、ということを第一に言うのではなくて、神は人間を救ってご自身の栄光を示されて、その御業をほめたたえるためにご自分の民を集められた、ということです。102編の続きにこうあります。20節以下です。

 

 主はその聖所、高い天から見渡し/大空から地上に目を注ぎ、捕われ人の呻きに耳を傾け/死に定められていた人々を/解き放ってくださいました。シオンで主の御名を唱え/エルサレムで主を賛美するために、諸国の民はひとつに集められ/主に仕えるために/すべての王国は集められます」(20-23節)。

 

賛美は神の民に本質的なことで、それは特権であり、義務である、ということができます。そこには救われた喜びと、またそれゆえに神に期待することのできる希望がありますから、義務と言われても積極的に果たすことができるものですが、私たちの方の気分によって賛美したりしなかったり、というものではないこともここから分かると思います。神をほめたたえることは私たちが礼拝を通して行う務めであり奉仕です。そもそも主の民がこぞって御前に進み出る公的礼拝そのものが奉仕であることは、「礼拝指針」の前文にも書かれている通りです。公的礼拝はそこに救いの恵みが注がれる、神ご自身による奉仕ではありますけれども、私たちがなすべき応答は礼拝を成り立たせるのに欠かせない、私たちの側からの奉仕です。あまりに「恵み」が強調されて、それに伴うはずの義務的な側面が礼拝から失われますと、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っている」(士師記21章25節)世の中にあっては、公的礼拝そのものが存続していくことができなくなる恐れがあります。

 

礼拝にふさわしい音楽

 では、「礼拝指針」の第23条にある「礼拝にふさわしい歌」、それと第24条にある「神への礼拝に仕える音楽」とは一体どういうことか。「聖書にしたがう」との指針を先に見ましたが、聖書が与える具体的な指針はわずかです。旧約聖書を調べてみますと、音楽と信仰の結びつきは案外随所で見つかるのですが、公的な礼拝の場で、つまりイスラエルの民の集いで音楽が用いられた例は、エルサレム神殿での実践に集約されます。そこではダビデの伝統を受け継ぐレビ人たちが専門の音楽家集団を作り、詠唱者、聖歌隊、竪琴やラッパによるオーケストラが編成されています。しかし、モーセの律法で音楽が命じられている箇所は一つもありません。唯一、申命記31章で、モーセが歌を後の世に伝えるよう命じているところがあります。

 

 あなたたちは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、それを彼らの口に置き、この歌をイスラエルの人々に対するわたしの証言としなさい。(31章19節)

 

そして、続く32章で「モーセの歌」が記されます。これを後々に伝えよと命じた理由はその内容が神の救いの証であり、教えであるからで、これに旋律がつけられるとか、楽器の伴奏とかは問題になりません。強いて言うならば、歌は記憶のためです。旧約聖書にあるイスラエルの歌は古文体のものが多いのでして、それは歌の言葉の保守性をよく表しています。つまり、歌は記憶を助ける働きがある、ということです。

 新約聖書にもイエスと弟子たちが賛美を歌ったという記述がありますし、黙示録には旧約聖書の神殿のイメージによるところの、神の民による荘厳な賛美が描かれたりもしていますが、公的礼拝での音楽の使用については直接的・具体的な指示は特になされてはいません。ですから、「礼拝にふさわしい音楽」とは何かと考える時の基準は、その音楽に盛り込まれる内容に重点が置かれることになります。つまり、音楽は言葉に従属する。歌で言いますならば、歌の言葉が聖書の啓示に対応する私たちの信仰告白になる、ということです。

 

教会史における音楽

 歌によって神を賛美する伝統は神の民の間から失われたことがありません。他方、それを音楽と広げますと、必ずしもそうではないようです。つまり、楽器を使用する音楽ということで言えば、初代教会では楽器の使用に否定的な時代があり、それはキリスト教会の歴史を一貫して今日まで続く一つの流れを作っています。この点についてはユダヤ教徒も同じです。音楽の発生は宗教にある、という研究もあるように、宗教と音楽は古くから密接な結びつきがあります。そこでキリスト教会の初期には音楽を通して異教的な影響を受けることが懸念されて、楽器の使用が遠ざけられたようです。「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない」(5章23節)と『アモス書』には形骸化した礼拝についての批判がありますし、パウロもまたその教えを汲んで愛のないところで「騒がしいどら、やかましいシンバル」が礼拝に入り込まないように注意を促していますから(コリントの信徒への手紙一13章1節)、そうした御言葉が思い起こされてのことであったろうと思われます。

 後に西欧のキリスト教社会が成立してからは、音楽が学問の一つに数えられて、キリスト教会に確固とした地位を占めるようになります。中世にはオルガンが導入されるようになりますけれども、グレゴリオ聖歌に実を結ぶ音楽探求の試みは、もっぱら歌において、つまり人間の声と言葉による音楽の完成を目指していましたから、楽器はそれを邪魔するものとみなされる傾向にあったようです。

 宗教改革の時代に、改革者たちも音楽の問題に取り組みました。年長者のツヴィングリは自分で作曲する程の音楽通でしたが、自らの手でオルガンを破壊したとも言われます。ドイツの改革者であるルターは民謡などを取り入れて賛美歌の創作に力を注ぎ、教会音楽の大衆化を進めました。カルヴァンも音楽の賜物を大切にした人ですが、会衆の賛美として『ジュネーブ詩編歌』の作成に乗り出し、当時一流の音楽家たちに作曲を依頼して音楽的にも非常に優れた賛美歌集を世に送り出しました。やがて、オルガンの評価が高まって、「礼拝にふさわしい」楽器のあり方が、オルガンによって追求されていくことになり、礼拝と音楽の密接な関係はJ.S.バッハに極まります。けれども、その後の西欧音楽は教会とは別の宮廷や劇場へと発展の場を移してゆくわけです。

 「礼拝指針」では楽器の使用について第27条にこう記されています。「楽器は、礼拝にあずかる会衆の賛美の助けとなるので、歌と共に用いられる」。この書き方からすると、楽器の使用は主に賛美歌の伴奏のため、と読まれますが、楽器を用いた演奏そのものが賛美の一様式として用いられる可能性もあるはずです。私たちの礼拝でも、前奏や後奏、またしばらく間を取るための間奏がオルガンでなされていますが、それらの意味を考えてみることは大切です。

 もう一つ、第25条に「礼拝全体の調和」ということが書かれていますが、何か含みがあるようでスッキリしませんが、旧い礼拝指針を見ると、第12条に「歌の選択」とありまして、「説教の精神と一致しなければならない」とあります。この方が幾分わかりやすいかとも思います。「説教の精神」とは、おそらく、説教の内容に即した賛美歌が適切に選ばれるように、ということなのでしょう。それを踏まえて「礼拝全体の調和」と言うのでしょうが、ここには賛美歌は説教の添え物ではなく、それ自体が礼拝の重要な要素であることがあえて表明されているものと思われます。そうしますと、どのような賛美歌が式順のどの場所で歌われるのかをよく考えて、礼拝式の全体を設計しなければならない、ということになります。単純に現代的な音楽はうるさいから調和を乱す、ということではないわけです。

 

賛美と祈り

 そこで、賛美歌の問題に入っていきたいと思いますが、まず、礼拝の要素としての賛美と祈りのことに触れておきます。言葉通りに捉えますと、「賛美」は神の御業をたたえて、その恵みに感謝を表すことです。「祈り」は祈願ですね。今ある私たちの困窮を訴えて、神の助けを願うことです。けれども、言葉の形式でこれを捉えますと、賛美と祈りには本来区別がありません。その良い例は『詩編』ですけれども、『詩編』は元来楽器の伴奏が伴って歌われたものだと言われます。けれども、その内容は実に様々です。賛美はその一つのジャンルでして、他にも嘆願の祈りや罪の告白、知恵や教えなどが散りばめられています。150の詩編全体が最終的に編集されたのも、個人が祈祷書として用いるためだとか、賛美歌集として礼拝で用いるためだとか、学者の間でも見解の相違があります。言葉の形式でいいますと賛美は歌であり、祈りは唱えるものだと一般的には受け止められていると思いますが、賛美と祈りは本来内容の違いです。そこで、歌うか唱えるかということの間に区別はありません。賛美を歌っても唱えてもよいわけですし、祈りを歌っても唱えても構わないわけです。例えば、『ジュネーブ詩編歌』を開いていただければ、そこに「主の祈り」や「使徒信条」があるのに気がつかれると思います。そうした祈りや信仰告白を教会は節をつけて歌ってきた伝統もあります。

 旧い礼拝指針ではこの辺りがまだ曖昧で「賛美」と「賛美歌」を同一視している向きがあります。そこで新しい礼拝指針では、「詩編歌と賛美歌は、会衆の祈りであり賛美である」と、その点を明確にしています。つまり、私たちが用いる賛美歌集は、歌うわけですけれども、歌によって祈ることもできるものである、ということです。

 そういう区別がつくとすると、私たちが礼拝式順にある祈祷と賛美については、その内容についてよく考えて配置することが大切だということになります。祈る場面で歌ってもいいわけです。罪を告白する場面で詩編を歌ってもいいわけです。礼拝全体の流れを決めていくところで、どこで歌い、どこで唱和するかを決めればよい、ということです。

 

賛美歌集の選択

 今述べたことは通常、牧師が週報を作成する段階で賛美歌を選ぶところで一部やっていることですけれども、今お話ししたところで、私たちは礼拝の中で好き勝手に歌っているわけではないことはお分かりいただけたのではないかと思います。また、今後、礼拝の式順を見直す時に、私たちがどのように祈りをささげ、どこで賛美をささげるか、と考えて、ふさわしい賛美歌を選べば良いのだと思います。

 そこで、私たちは賛美歌集を通常用います。これは公的礼拝用だと思っておられる方が多いかもしれませんが、実はそうではなくて、公的礼拝にも用いられるのですけれども、個人でも礼拝に用いたり、また自由な交わりの中で用いたりできるように配慮されてできたものです。そうして五百曲以上も集められた歌集がこれですので、これ全部を礼拝で歌うつもりはそもそも意図されていません。私たちが今用いているのは1954年に改訂がなされた日本基督教団の賛美歌委員会が発行した『賛美歌』です。これが作られた背景については初めの序文をお読みいただければよいと思いますが、これの作成とその後の『賛美歌21』の編集にも携わった元神戸栄光教会の牧師でした北村宗次先生によりますと、実際に礼拝で用いるのは100番ぐらいまでだということです。500番台などは19世紀のアメリカの流行歌ですから、「礼拝全体に調和しない」というのでしょう。私はよく選んでますけれども。そういうことは、実は私たちは知らなかったわけではないのでして、私どもの改革派教会では1961年の第16回大会で「推奨賛美歌」の一覧を、賛美歌検討委員会を通じて発表したことがありました。数からしますとおよそ半分くらい、284曲が選ばれています。けれども、それがあまり顧みられないで今日に至っているのが現状です。つまり、礼拝にふさわしい賛美歌を求める真剣な取り組みがないまま、自由な好みで歌って来ているわけです。全く取り組みがなかったのではなくて、『ジュネーブ詩編歌』ができたわけですから、これはそれとして尋常ではない努力が捧げられてきたのですが、教派全体として見ればそれほど普及してはいませんので、やはり動きは鈍いと言わねばなりません。「礼拝指針」にもありますように、「詩編歌と賛美歌」の二本立てで礼拝における賛美・祈りを充実させようということですので、『ジュネーブ詩編歌』は賛美歌集に取って代わるものではありません。私たちの教会のように、これはこれとして用いられればよいわけです。

 54年版の『讃美歌』は今でも広く用いられています。これを発行している日本基督教団の讃美歌委員会では、世代交代を果たした折に新しい『讃美歌21』を出しました。これも大変な労作ですけれども、やはりそれほど普及せずに今日に至っています。旧版の『讃美歌』はそれでお役御免になって廃刊になる予定でしたが、結局それができないで今でも書店で購入することができます。この旧版が用いられている理由の一つは、もとよりこれがエキュメニカルなものだからです。戦前の旧日本基督教会は長老派・改革派の伝統を受け継いだプロテスタント主流派の教会でしたが、教派嫌いの日本的な体質もあって、エキュメニカルな『讃美歌』の誕生を歓迎したのだそうです。それで、これが広く使われるようになって、先ほど触れましたように歌の言葉は保守的ですから、歌い馴染んだ讃美歌集を今も会衆が手放したがらないわけで、主流派教会では賛美歌への取り組みという点では古い体質がここかしこで残っままになっています。

 私たちが現在用いている『讃美歌』の問題点を挙げてみますと、第一に、私たちの公的礼拝に使える歌が案外少ないことです。気にしないで使っていますけれども、本当は選曲にすごく苦労します。共同体の、民が一致して神に向かうという賛美歌が少ないですね。歌詞にはすぐれて文学的なものがありますけれども、よく格調が高いと言われる通りにですね。しかし、個人的・内面的なものが多すぎて、告白的なものが足りません。これは『讃美歌21』の改善点でもありまして、賛美歌の分類をしている見出しからも伺えます。私の経験からしますと、『21』の方が選曲はしやすいように思います。

 それから、旧版の第二の問題点は、言葉の難しさです。そこが格調の高さだと思っている方が多いのではないかと思いますが、では、歌詞の意味を本当に理解しているのかを確かめてみますと、やはりそうではないわけです。「礼拝指針」は旧版も新版も歌詞を理解することの重要さを訴えています。言葉が分からないで賛美も祈りもありません。でも、音楽がつきますとその高揚感でその気分になってしまう。気分で自己満足してしまうわけです。それは、神にとどくささげものではないのだと思いますが、いかがでしょうか。幼い子どもや知的障害をもった方も礼拝には集います。たとえ言葉を理解しなくてもそうした方々をイエスは招いてくださるお方です。契約の恵みというのは、神の自由な選びに基づいていますから、そうすることができるわけです。けれども、礼拝に集う私たちにはそれぞれのタラントに従った奉仕が求められます。「言葉を理解する」ことは識字率の高い日本では一般的な能力ですから、本来なら誰もが理解して歌い、祈ることができるはずです。昔はラテン語でしか礼拝をささげることができなかったカトリック教会でも、今は会衆が理解できるように母国語で礼拝するようになっています。

 『讃美歌』の中に難しい言葉は随所に見つかると思います。私は子どもの頃からこれを歌っていて「主のみいつ」をずっと三位一体のことだと思っていました。「みいつ」とは天皇の威光のことですね。その時代を背負った言葉であるわけです。他にも例えば、クリスマスに歌う「もろびとこぞりて」がありますね。その2番に「悪魔のひとやを打ち砕きて」とあります。「ひとや」を漢字で書ける人がどれくらいあるでしょうか。これはある本の指摘ですけれども、「一夜」とか「一矢」だと大抵は思っている。けれども、「獄」という字です。ワープロで打ってみればちゃんと出てきます。そんなことは気にしないでみんな歌って満足しているわけです。昔こういう話をしていたときに、若い人たちでもいずれ分かるようになる、と仰った教会員の方がありました。確かに、私はだいぶ教えられきたように思いますが、もし牧師にならなかったら、分かるようになったかどうかわかりません。そのまま死ぬまで「みいつ」は三位一体だったかもわかりません。この辺りのことを、30年ほど前に改革派の讃美歌検討委員会が教派内の全国の中高生に向けてアンケートを取ったことがあります。それでわかったことは、高校生などはまず理解していない。歌詞の面でも『讃美歌』を今に至るまで使いこなしていないわけです。こうしたところも『讃美歌21』では意識されて改善が試みられています。ただ、慣れ親しんだ歌詞が変更されるのは確かに違和感が強く残って、詩というものは分かりやすければ良いというものではないのも確かです。そうしたアンケートの結果を見て、その後の委員会の方針は高校生にも分かるような歌詞で賛美歌集を用意する、ということになりました。その頃はまだ、自分たちの手で新しい賛美歌集を作るのだという気運がまだあったんですね。

 それと『21』では、先に例を挙げた「みいつ」のような戦時中に天皇にささげられた用語は取り去られています。もう現役を引退されています石丸新先生が『賛美歌にあった君が代』という題の本を書いて、どんな言葉が私たちの『讃美歌』に含まれているかを具体的に挙げて解説してくれています。「言葉狩りだ」という人もありますから、賛否は別れるところです。

 三番目の問題点は、やはり歌詞の問題ですが、信仰告白との関連です。よく考えてみれば当たり前のことのはずですが、讃美歌では論じられないのが不思議です。賛美は神賛美であると同時に、信仰告白であり、宣教の内容です。聖書の中でも異なる信仰で神に賛美をささげるのは異教徒のはずです。ですから、私たちも、自分の信仰告白に即した言葉でなければ、賛美をささげることはできないはずです。榊原康夫先生の言葉によれば、「嘘の讃美歌」になる。そういう嘘の賛美歌に慣れてしまうと、礼拝が嘘になる。信仰が嘘になる。そういうところで霊的に養われることが無いばかりか、形ばかりの礼拝の姿勢が身につくようになるわけです。

 エキュメニズムを福音宣教の実際的働きにおける協力、そして、教派を超えた兄弟姉妹の交わり、神学的な相互研鑽、などの面に捉えるならば、それは積極的に進めるべきことと私は考えますが、こと信仰告白についてはエキュメニカルにはいかないわけです。そこに私たちの信仰そのものがあるわけですし、信仰告白は私たちの信じる聖書の啓示に基づいているわけです。ですから、神が教会に信ぜよと命じていることに反して、人におもねって違う教説を述べることはできないはずです。私たちの信仰告白とは、教会憲法によりますと、ウェストミンスター信条に代表される改革派諸信条に表された信仰告白です。ですから、それらの信条に準拠した歌詞でないと、礼拝にふさわしく用いられないのは当然のことだと誰にも分かるはずです。旧版の『讃美歌』は、旧日本基督教会の伝統を担って来られた先生方によって作られましたから、エキュメニカルなものとはいえ、長老派・改革派の信仰を色濃く反映していると思います。けれども、そうではないものもたくさん含まれているのですから、現時点ではそれを注意して私たちの側で選り分けなければならないことになります。賛美歌集は一世代かけて一つのものに習熟していく、というのは北米キリスト改革派教会(以下、CRC)の賛美歌学者であるエミリー・ブリンク先生が言われたことです。そうであれば、その信仰に及ぼす影響も多大なものがあるはずです。私たちが自分たちの願う賛美歌集を持てないのは、残念ながらそれを作る力がないからです。それを試みようと言う意欲ある先生方があったわけですが、教会の理解を十分に得ることができなかったことも残念です。

 ですから、私たちは用いている賛美歌集については、無教派主義に立っていると言えます。これは『讃美歌21』でも同じです。『21』は礼拝用に様々な工夫が凝らされていますが、エキュメニズムはさらに進んで世界各国の賛美歌を寄せ集めて共有しようとしています。一般的に言って讃美歌の歌詞は神学論文ではありませんから、聖書の言葉を拠りながら公同信条のような大きな枠組みの中で、言葉を紡ぐことは可能かもしれません。そうすれば、教派を超えて、世界中の兄弟姉妹と、一つの賛美歌を異なる言語で歌うビジョンも開かれます。信仰の継承を考えるとそればかりで済ますわけには行きませんが、公同教会の一致を目指す点からいえば、エキュメニカルな賛美歌を生み出す努力も必要だと思います。すでに世界の諸教会で共有されている歌もあると思います。ベツレヘムの生誕教会で行われたクリスマスのミサに参加した時、真夜中の12時丁度に始まると同時に歌われた讃美歌は、ゴスペル・ソングとして有名な「神の国と神の義を」のメロディに「ハレルヤ」の言葉を当てはめたものでした。通常のミサがどうかは分かりませんが、カトリック教会でも賛美歌におけるエキュメニズムには積極的に取り組んでいるようです。

 自前のものがない現状では、あるものをお借りして、それを工夫して用いる他はありません。私たちが公的礼拝に用いることのできる賛美歌集としては54年版の『讃美歌』と新版の『讃美歌21』の二つより他はないと思います。福音派の諸教会で用いられている『聖歌』および『新聖歌』は大衆的で馴染みやすいかも知れませんが、私たちとは礼拝観が違いますからやはり公的礼拝には用いづらいと思います。では、二つの内どちらを選ぶかとなれば、私個人としては『讃美歌21』を推します。ただ、大会でも神学校でもそういう選択をしていませんから、急ぐ必要もないかも知れません。

 旧版の『讃美歌』に合わせて『讃美歌第二編』を用いる教会もあります。レパートリーが広がりますから、それで礼拝賛美に少し余裕ができるかも知れません。私たちが聖餐式で用いている「こころを高くあげよ」は『21』からの選曲ですが、もとより『第二編』の1番で知られて歌われてきた讃美歌です。

 

讃美歌の用い方

 今日は「公的礼拝における賛美」という点でお話ししてきたつもりです。そこで実践的なことをもう少し加えたいと思います。賛美歌集の選択については今お話しした通りですが、私たちが歌うことは何も公的礼拝の場だけではないわけです。「礼拝指針」でも私的な礼拝が奨励されていますし、家庭集会でも青年たちの集まりでも、超教派的な集いでも賛美歌は歌います。その場で賛美歌集を使い分ければよいのだと思います。私は青年時代にゴスペル音楽に触れました。きっかけはもう天にめされました古川第一郎先生が青年会の中におられて、若者向けの伝道集会を企画して、当時明治学院大学の学生たちによるグループを連れてきてくれました。それ以来、山内修一さんの伝記映画を見たり、『友よ歌おう』を青年会で歌ったりして育ちました。大学生の頃は、友人に連れられて超教派的な集会によく顔を出したり、クリスチャンのミユージシャンと知り合いになったりもしました。青年会時代には改革派教会の仲間達とJ.C.コーナストーンのコンサートを企画したりもして、教師たちからは「恥ずかしいから止めてくれ」など言われたこともありました。今思えば確かに恥ずかしいところもあるのですが、大衆向けのゴスペル・ソングにはそれなりの効用があるようにも思います。それらの歌から理知的に学ぶところはあまりなかったかも知れませんが、その当時の素直な感情を歌で言い表すことの気持ち良さを味わいました。信仰には知性ばかりではなく涙を流したり声をあげて喜んだりする情操面も大切だと思います。

 信仰は魂の問題ですから、命の問題ですから、心と体の全体がキリストに結びついて神のものとなることのはずです。その情操面への働きかけについては、私たちはやはり弱いのではないかと感じています。公的な礼拝は生ける言葉が臨在する場ですから、言葉を理解して内に止めるための、ある集中が必要です。聖餐式が顕著に表すように、罪の悔い改めを本気で表すための備えが心と体に求められます。礼拝の厳粛さや品性というものは、その信仰からくるものであって、集う教会員が属する社会層が要求するようなものではないはずです。

 私たちの公的礼拝に求められる霊性はそのようなものですから、大衆受けを第一に考えて賛美歌や楽器を選ぶことはありません。楽器にオルガンを選ぶのもその理由です。ですが、場を変えれば、私たちは様々な賛美歌に触れることができます。私が今とても気に入っているのは、テゼ共同体が発表している賛美歌です。CDを人にあげてしまったので、お聞かせできないのが残念ですが、伝統的であり尚且つ斬新な礼拝賛美のあり方だと思います。音楽的には評価はゼロだと仰った音楽家もありますが、アカデミックではないのは確かです。しかし、世界中から若者が集ってそこで歌うことを楽しみにしているのには信仰的な理由があると思います。私の意見では、公的な礼拝はそれとして保ちながら、青年たちは自分たちの集まりで自由に賛美歌を選べばよいと思います。大会や神学校はもっと詩編歌を歌うべきです。

 以上、お話ししたことから、今日では一冊の賛美歌集にこだわって、それに習熟する、ということでは、私たちの必要は満たされないという結論になります。改革派教会が独自の賛美歌集をもつまでに至るのには、まだまだ十年単位の時間がかかると思います。

 

楽器の選択

 オルガンの使用については、ですから合理的と言いますか、聖書からの直接の指示はありませんから、絶対的な理由があるわけではありません。『ウェストミンスター信仰告白』の詞で言えば、「キリスト教的な分別から」そう判断するだけです。西欧にはオルガンの音によって培われた礼拝の伝統と霊性があります。私たちは信条と一緒にそうした礼拝からも豊かな養いを受けることができると思います。ピアノやギター、バンドで礼拝全体の調和を作り上げることが無理だとは言いません。CRCが毎年1月に行っている礼拝シンポジウムは、その伝統と現代性をいかにマッチさせるかの試みとして評価に値します。どんな楽器を用いるにせよ、その演奏の仕方次第だとは思いますが、オルガンが生み出す音の空間にまさる楽器は、人間の声を置いて他にないと思います。

 一つの問題は、オルガニストをいかに確保するかです。礼拝における賛美歌についての意識がなかなか高まらないようでは、オルガニストを育てる教会の務めも十分に果たすこともできません。多くの人はピアノを習うのだから、礼拝もピアノでいいではないかと言われることもあります。それなら、楽器はなんでもよいということですね。私たちの教会にはオルガニストがいますから恵まれています。けれども、それは当たり前ではなくて、いない教会もたくさんあります。ヒム・プレイヤーという機械がありますが、便利といえば便利ですが、とても歌いづらいしろものです。機械は心で賛美していませんから、オルガニストとは全く違います。オルガニストは演奏しながら会衆と心を一つにして賛美をささげています。

 オルガニストがいない場合、私はアカペラで十分だと思います。そこで無理に楽器を使おうとしますと、かえって会衆賛美を阻害します。楽器の演奏でも歌でも、礼拝で奉仕するとなると、「礼拝指針」にもありますように、それなりに確かな技術が必要です。もしも、歌でリードする人もいない、ということになれば、いよいよヒム・プレーヤーの登場になるかと思います。

 教会の音楽にそれほど力を注いではいられないのが日本宣教の実情なのかもしれません。そこであまりに高度な音楽を要求することは、経済的な面からしても、かえって伝道の妨げになる可能性がないとも言えません。神は貧しい献げものも、それが真心からのものであれば喜んでくださるはずです。ですから、身の丈に応じた音楽のささげものから始めればよいのだと思います。しかし、十分に成長して、よりよきものを御前にささげることができるようになったならば、それまでの貧しさに甘んじていないで、よりよい礼拝賛美をささげるように努力するべきでしょう。

 

会衆賛美の実際

 オルガンのことに触れましたので、奏楽の役割についても一言触れておきます。「礼拝指針」では第27条に、会衆賛美の助けとして楽器が容認されていることが記してあります。音楽にはそれ自体に言葉としての性質があり、会衆の歌の添え物ではない、ということもその通りだと思いますが、会衆賛美を導き支えるという役割は奏楽の基本です。中世ではオルガンの演奏が止むと会衆の声がようやく聞こえるようになる、という話もあって、そういう喧しさが嫌われてオルガン排斥にもつながったと思われます。しかし、賛美は民の一致を表すもので、そもそも歌が必要とされるのは、教会が一つの民であることを表すためだと言われます。そのことは第二バチカン公会議以降、会衆賛美の開拓に力を入れ始めたカトリック教会でも意識されています。オルガンが、あるいはオルガニストがいかに会衆を導くかということは、オルガニストがいつも心に止めておく事柄です。私は演奏できませんが、よいオルガニストは引っ張らないように思います。遅いぞ、テンポを守れ、とぐいぐい引っ張るような演奏の仕方は、はたから見れば会衆賛美を壊しています。よい演奏は会衆の賛美を後押しします。これはおそらくアンサンブルを経験するとよいのかも知れません。「伴奏」というのは歴とした演奏の技術です。

 それと音量ですけれども、これはオルガニストに限らず、会堂の設計や管理の仕方とも関わりますから、音響効果をよく把握しておくことが大切です。会衆賛美ではともに声を聞き合うことが大切だと思います。会衆の声が聞き分けられないほどオルガンをガンガン鳴らしては、これも会衆賛美の助けになりません。パイプ・オルガンなどはこの点が難しいと思います。

 ともに声を聞き合うこと、と言いましたが、これは会衆の賛美の仕方にも関わります。一人で歌って気持ちよくなりたいなら、カラオケが一番いいと思います。好きな歌も選べます。韓国のノレバンにはちゃんと賛美歌も用意されていて、牧師もよく練習に行くのだそうです。声の一致が大切なのですから、自分一人の声しか聞こえなくなってしまってはそれが果たされません。喜びを表現するのはそれでその通りなのですけれども、いつでもどこでも声を張り上げる必要はありません。音程がしっかりしていて賛美歌が歌える人は、むしろ、よく会衆の声に耳を傾けて、奏楽者と同じように会衆の賛美を支えるようにしたらよろしいでしょう。

 それと合わせて考えたいのは、パートをとるかどうかです。カルヴァンは今あげた理由から、つまり会衆の声を一つにする必要から、賛美歌は斉唱するものと決めていたようです。私たちが手にしている『ジュネーブ詩編歌』を見れば一つの旋律しかそこには記載されていません。ですから、若い教会であれば会衆賛美の始まりも斉唱から始めたら良いと思います。今日の若者中心のコンテンポラリーな礼拝でも、ワーシップ・リーダーたちを除けば、会衆の賛美は単旋律です。だから誰でも歌えるわけです。

 他方、『讃美歌』を見ますと、通常は4声に分かれています。それで、どこの教会でも自由にパートをとって歌うことができます。私の場合は、父がいつも傍でベースを歌っていましたから、それを子どもの頃から真似して覚えました。カルヴァンの手による『ジュネーブ詩編歌』がテオドール・ベザの手によって完成されて間も無く、クロード・グディメルの手によって4声部のスコアに変わります。『ジュネーブ詩編歌』は公的礼拝で用いられたばかりではなく、巷でも歌われてその音楽性が豊かな発展をして行きました。それに伴って、単旋律で歌うというカルヴァンの方針も、必ずしも堅持されたわけではなかったようです。現在のフランス改革派教会による『ジュネーブ詩編歌』には4声部のスコアが記載されています。

 ですから、斉唱がいいか、合唱がいいかは一口には言えません。ただ、賛美において民の一致を表すという心構えは大切にしたいところです。それで、現実的な面から言うと、あまりパートを取ろうとしない方がよろしいかと思います。合唱は音取りがきちんと取れてこそキレイに鳴り響きます。改革長老教会のある教会では、教派の方針から楽器を用いません。ですから、アカペラになるわけですが、イングランド・スコットランドの伝統では旋律を美しく歌うことが発展しましたから、その霊性を受け継ぐためかとても美しいハーモニーで皆さん歌われます。奏楽がありませんから尚更きれいに聞こえます。よく訓練されているのかもしれません。けれども、音取りが苦手な人が礼拝賛美の最中にパート練習をし始めますと、本人は懸命かもしれませんが、周りの人が歌いづらくて仕方ありませんし、残念ながらハーモニーは生まれません。それに恐らく、楽譜に目がいってしまって歌詞には集中できないだろうと思います。先に賛美と祈りは一つだと言いました。心あらずで祈りは成り立たないのと同じで、賛美もまた言葉のささげものです。声は小さくてもいいのですけれども、言葉をしっかりと歌うことを心がけたいところです。パートをとるのであれば正確に歌える自信をもって、そのためには事前に練習して、さらに賛美の現場でそれが全体に調和するかどうかを確認して-声楽家が一人でデスカントを歌い始めても困りますから-、それで歌うことでよろしいのではないかと思います。

 ですから、これも場の問題になると思います。合唱をしたいのであれば、それができる自由な場を設けることができます。西部中会では今のところ合同クリスマスの聖歌隊しかありませんが、例えば板宿教会のように賛美歌を歌う会を催してもよいかと思います。いずれにしても賛美歌練習は会衆賛美の向上のために必要だと思うのですが、今のところどうしたらいいか考えあぐねています。

 歌が苦手だ、という方も御ありかと思います。祈りと同じように、声を出して唱えればよいわけですから、恥ずかしがる必要もありません。皆が声を出していますので、自分だけ目立つということもありません。声のでない方があれば、耳で聞いて心を合わせることでも賛美はなりたちます。

 

その他の課題

 今日触れなかった問題としてあと残っているのは、賛美歌と伝道の関係です。礼拝との関係で考えると、礼拝の中での音楽は歌も含めて、第一に神に向かうものであって、人間に差し向けられたものではありません。しかし、歌う主体である私たちは、その存在が神の民として証を保ちますから、歌う言葉が周囲の人々に神の栄光を語るために用いられます。これは聖書から直接学ぶことができる賛美のビジョンです。ですから、時代に受け入れられやすいように、流行歌のメロディーを用い、歌詞を配慮する、という風にはならないと思います。そういう配慮で歌を用いるならば、やはり公的礼拝とは別の場所で行うのがよろしいでしょう。しかし、本気で音楽によって伝道をするのならば、音楽そのものによって神の真実を伝えるべきです。人寄せのために音楽を利用するような類の音楽伝道は、ある時期ブームを作り出すことに成功はしても、神をも人をも真理に導くことにはならないと思います。バッハはその音楽の高さで神の栄光を表し、世界中の人々にキリストの救いを語る言葉を神にささげています。音楽家たちは、音楽という固有の領域でいかにしてキリスト者が神の栄光を表し、救いの証を地上に打ち立てるかということのよい事例です。私たちの歌う賛美歌も音楽もそれ自体の素晴らしさが世の中に証されれば、歌や音楽自体が神の栄光を世に伝えます。そうした務めを果たす力がキリスト教会全体の中にないわけではないと思います。

 また、それは世代の継承、信仰の継承にも関わります。CRCの報告では、米国で起こった「礼拝戦争」と言われる事態が、特に賛美歌の好みについて世代間で深刻になり、教会が分裂するようなことも起こったと言います。年輩の会員は若者たちの新しい賛美歌を喧しいといって馬鹿にし、若者たちはお祖父さん・お祖母さんの歌う賛美歌を堅苦しいといって毛嫌いします。そこには簡単には歩み寄れない時代の違い、感性の違いがあるわけですが、その間にあって悩み抜いた教会は、お互いにお互いを受け入れるための努力を礼拝にあらわすように心がけたと言います。そこで生まれた方式が「ブレンド方式」と呼ばれる方法で、奏楽にはオルガンもバンドも両方用いて、歌う賛美歌も伝統的なものから新しいヒットソングもあるという具合です。それを私たちが真似することができるかどうかはともかく、世代を受け継ぐために礼拝賛美の仕方を常に考え続け、新しいものも生み出し続ける努力がなければ、世代は断絶します。神学は常に普遍的であることを求めますから、その真理性が明らかになれば時代を超えて受け継がれます。しかし、礼拝の形式に「真理」はありません。礼拝に真理が現れるために、それは常に時代に応じて変化します。私たちはそこに働く霊に仕えるために、古いものを受け継ぎながらそれを新たに開花させていく努力を怠らないでいることしか、教会を真に担っていくことはできないのだと思います。今置かれている現状をよく考えて、できることを感謝して実行しながら、私たちの教会をきたるべき次の世代に受け渡すためにも、向上心は失わないでいたいと思います。

 

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