キ リ ス ト 教 葬 儀 の 意 義 と 実 際

 

はじめに

 今日はキリスト教の葬儀について原則的なことと私たちの教会で実際行い場合のことについてお話ししたいと思います。まだ、私たちの教会には「葬儀規定」なるものは用意されていませんから、これからそうしたものも備えてゆけばよいかと思います。

 葬儀について考える時に、私たちは直接「死」という問題に直面します。誰にでも訪れる人生の終りの出来事です。信仰が与えられている私たちにとっては、「死」は既に解決されている問題です。肉体の死において聖書から私たちに知らされているのは、そこで滅びてしまわない、キリストと結ばれてある永遠の命のことですし、最後の復活の約束です。ですから自分のこととしては、私たちは「死」を恐れてその準備に振り回されるようなことからは解放されています。そこで、キリスト教の葬儀は、聖書に証しされているこれらの約束を踏まえた上での、教会独自の葬儀のあり方になります。

 ただ、死に際して問題になるのは、当人は神の約束の内に平安をもつことができるとはいえ、周囲の人間に取りましては、やはり辛い別れであることです。クリスチャンは死を悲しまないのではないと思います。そこで絶望するのは間違いですが、やはり愛する兄弟姉妹との別離は悲しいものです。ですから教会の葬儀も、互いに愛し合う交わりであるが故の悲しみを担うものであって、皆が慰めを必要とします。葬儀は、人は死すべきものであるということを厳粛に突きつけられる場ですけれども、同時に、神が私たちの命に永遠を約束してくださっていて、復活の望みがあることを高らかに宣言してくださる場となって、別れを悲しむ群れの内に、上からの慰めが注がれる場となります。

 また、信仰者にとって、葬儀は感謝の場でもあります。たとえ短い交わりでありましても、愛するその人とこの世で出会うことのできた喜びは、神の賜物です。人がいつ死ぬかということは私たちに決められることではありません。突然、目の前からいなくなることもあります。けれども、それは神がとられるのです。私たちは神を信じるのなら、今は神の御手のうちにあるその人の魂を思って、この世での祝福に感謝をささげる者となります。特に教会員であった兄弟姉妹が天に召されたとき、私たちは葬儀において、神がその方を通して私たちに与えてくれた数々の恵みを思い起こして感謝をささげます。そして葬儀は、神が私たちのもとに遣わしてくださったその人の地上での歩みが今幕を閉じ、神が天に呼び返されたことを公に告知します。

 ここで教会葬儀の目的をまとめてみますと次のようになるでしょう:

① 愛する者との離別を悲しむ共同体への慰めを神から受け取ること。

② 天へ召された兄弟姉妹のその生死において証しされた神に感謝し礼拝を捧げること。

③ 兄弟姉妹の地上での生涯が神によって終りを迎えたことを教会の内外に告知すること。

 以上のことを踏まえた上で教会葬儀についての実践的な課題について考えてみたいと思います。

 

教会葬儀の実際

 私たちの教会には今のところ葬儀の実際についての取り決めは特にしていません。過去において葬儀が行われたことは何度かありますが、その時々で、遺族代表の方と牧師と業者とで話し合って葬儀を行っていたのだろうと思います。それで済んでいたということは、葬儀の実際ということでは、そうしたその場の対応で済んでしまうものなのでしょう。ですから、改めて葬儀を問うということは、教会にとって葬儀とは何かということをもう一度確認しながら、現状を問い直すことになります。

 これまでの葬儀がそれほど問題なかったのは、それでやっていける理解が背後にあるからだと思います。つまり、葬儀はあくまで私的なものであって、教会はそれに手伝いをするに過ぎないという理解です。ですから、葬式を執り行うのは牧師が主導のようですけれども、確かに司式についてはすべて牧師がやっているのですが、本当のところは「喪主」が葬儀の主でありまして、全体の責任を負っています。ですから、葬儀の実際についても、ばらつきがあるでしょうし、それが許されています。勿論、教会員であれば最低限の枠組みがあります。私たちの教会の憲法であります礼拝指針にも「葬式」という項目があり、それに反するような葬式を教会は執り行うことはできません。けれども、礼拝指針にしても細かい指示はしていないのでして、やはりそこには、葬儀は私的なものという理解が含意されているように思います。

 果たして葬儀が私的なものか公的なものかという議論は後ほどまた触れることにして、それはともかく、やはり教会員の葬儀には教会が実際に関わるのですから、何らかの実際的な準備をしておくことは必要になるだろうと思います。

 

準備しておくべきこと

 そこで牧師の側からの提案になりますが、次のことをできるだけはやく整えておきたいと考えています。

① 自分はどのような葬儀を行いたいかを予め家族で話し合っておく。特に、家族・親類が未信者である場合には、キリスト教の葬儀を行うということの承認を得ておくことが重要(遺言の可能性)。

② 愛唱讃美歌と愛唱聖句を牧師に伝えておく(いずれアンケート調査を行います)。

③ 執事会または小会を通して「葬儀の手順」についてまとめておく(葬儀社の選定なども含む)。

 これら3点は、葬儀の「公私」にかかわらず最低限準備しておく必要があるものです。

 葬儀の手順をまとめておくには、これまでの経験を踏まえてということもありますが、現在では幾つかの教会でまとめられたものが発表されていて参考になります。出版されたものは少ないのですが、近頃はインターネットでそうした資料を閲覧することができます。これはおそらくキリスト教の葬儀によって伝道しようという目的ではないかと思われます。

葬儀の手順

 改革派教会では、葬儀の手順の基本型について、政治基準の礼拝規定に基づく式文で次のように記されています。参考までに挙げますと、

 納棺式

 前夜式

 出棺式

 葬式(告別式)

 火葬式

 納骨式

 記念会

となります。この式文では臨終の報せを受けてはじめて牧師が動き出すことになっていますが、教会によっては危篤の報せを受けたときに病院・自宅に駆けつけて、臨終に立ち会うことから始めます。

 また、各個教会で葬儀の手順をマニュアル化する動きもみられますけれども、その一つの実例として、私の以前牧会していた千里山教会で作成した手引きをお配りしておきます(「葬儀規定」)。これを手掛かりにして私たちが確認しておかなくてはならない葬儀の実際の問題を挙げてみますと、以下のようにまとめられます。

 

教会の葬儀を誰に実施するか

 教会員は当然でしょうけれども、そこからどこまで範囲を広げていくかという問題です。未信者であっても教会員の家族の場合は大抵問題なく受け入れているようですが、例えば身寄りのない友人とか、近所づきあいとか、教会の近隣の方とか、どこまで受け入れるのかは話し合っておく必要があります。これは葬儀の目的とも関連してくる問題で、もし「伝道」という要素を大きく見る場合ですと、できる限り広く設定することになるでしょう。後で触れることになるはずですが、特に教会葬儀をもって地域に奉仕ししよう、ということになれば、基本的には、キリスト教葬儀に賛同するものであれば誰でもという方針になるかと思います。これは神港教会の元牧師である安田吉三郎先生がかつて講演で主張された点でもあります。

 

葬式会場の設営

 『礼拝指針』もそうですが、改革派教会の葬式指針の特色は、できる限り偶像崇拝となる要素は排除するという方針にあらわれています。ですから、仏式で行われるような世間の葬式と比べても大変簡素です。けれども、「教会葬儀マニュアル」のようなものが改革派教会に備わっているわけでもありませんので、「異教的要素」をどこに見出すかという点は一応常識の範囲内で各教会に任されていることになります。例えば「献花はしない」と定めている教会もありますが、他方では献花を行う教会も少なくありません。他にも遺品を遺体と一緒に焼却するかどうか、とかもあります。クリスチャンの方でも「天国へ行ったら寂しいだろうから」などといって故人の大好きだったものを棺に入れるとかはついしてしまうわけです。また、教会で花輪を飾るところはあまり見たことがありませんが、「生花はよい」としても、やはり程度があります。故人の社会的な地位に相応しい装飾をよしとするのかどうか。お金持ちの信徒さんは豪華な葬式で、貧しい信徒さんはつつましく、などということが同じ教会で実際に起こることも有り得ます。これもまた葬儀をどう教会で位置付けるかという問題と関わってきます。他にも細かい点が幾つもありますが、こうしたことは一度教会で話し合って決めておいた方がよいと思います。

 

葬儀の問題を信仰の事柄として考える

 これまで葬儀の実践的な側面からお話してきましたけれども、どの具体的な問題を取り上げましても、やはり葬儀が、私たちの信仰とどのように関わるのかというところをきちんと掘り下げておく必要があります。つまり、神学的な位置付けをしておきませんと、結局は「どうでもよいこと」にされてしまいます。大きく分けて二つの観点から論じる必要があると思います。第一に、キリスト教信仰にとって葬儀はどういう意義をもっているのかということ。第二に、それらの宣教的意義についてです。この「宣教」という意味は「伝道」という狭い意味だけではなくて、異教的習俗との対面という問題も含んでいます。そしてこの順序が大切だと私は考えます。

 

教会葬儀の規定(公的立場)

①『礼拝指針』第11章 葬式

 改革派教会では礼拝指針の第11章のところで「葬式」について規定していますが、先程も触れました通り、細部には触れていません。第66条の「目的」についてだけお読みしますと、次のようにあります。

 葬式の本来の目的は、神への礼拝・遺体の葬り・地上にある者への慰めである。従って、死者のために祈ること、供えること、また死者に語りかけることなどの異教的習慣を警戒しなければならない。

全体の調子としては、ここで述べられているのは「異教的習慣に注意せよ」ということでありまして、「こうあるべき」という積極的な論述は避けられています。「遺体の葬り」ですとか「慰め」はその通りのものですが、「神への礼拝」という点では言葉遣いは明確な主張のようですがもう一つはっきりしません。といいますのも、では、どういう礼拝なのか。主の日の礼拝に比せられるような礼拝なのか、ということです。しかしこの表現は、むしろ「神への礼拝」であって「偶像崇拝」ではない、という点に強調があるのだと思います。ですから、葬儀を教会で行うに当たって非常にマイナス志向に受け止められます。これは特に、葬儀は教会の公的な行事になるのか、それとも私的な領域に入るのかという議論では曖昧な点を残すことになります。「礼拝ではあっても私的」というのが現在の立場だからです。

 

② 式文

 もう一つ公的な文書として葬儀について触れているものに「式文」がありますが、これは教会憲法ほどの拘束力はありませんけれども、改革派教会ではこれを用いないで葬儀をしているところもないと思います。その序文に記されているのは先程お読みしました礼拝指針66条でして、それに加えて『ウェストミンスター大教理問答』107-110問という参照が付されています。つまり、十戒の第二戒についての教え、あなたは刻んだ像を造ってはならない、という偶像崇拝の禁止の事項がここに適用されてくるわけです。ですから、葬儀は教会としてはかなり否定的な扱いを受けているという印象を免れえません。このことの問題点は次に述べますけれども、改革派系の他教派にはこうした傾向とは別のものがありますのでご紹介しておきます。

 

他教派・他教会の例

 今回私が参照している資料の一つに、1982年に出されました西部中会世と教会に関する委員会の『キリスト教葬儀』というパンフレットがあります。その中で安田吉三郎先生が南長老教会の礼拝指針改訂版から翻訳して掲載している部分があります。それを見ますと、私たちの葬儀理解とはだいぶ様子が違うことがわかります。「葬式及び死者の埋葬」と標題がありまして、その第一条は、「葬式は礼拝としてなさるべきであり」とやはり葬式は礼拝であると述べられます。しかし、それに続いて、「その中で神の民は、聖徒の交わり、からだの復活、永遠の生命に関する信仰をあかしする。またその礼拝において、キリストにある神の愛と救いの確かさが、特に遺族への慰めとして与えられねばならない。この礼拝は通常、神の民のために聖別された会堂において、み言葉の教師の司式の下に行わるべきである」となっています。つまり、偶像崇拝に気をつけようという基本的方針が、ここでは神の民の礼拝として葬儀を行うという積極的な姿勢に変わっています。そして葬儀は「私的な」ものとして処理されるのではなくて、公的な、教会の行事として位置付けられています。

 

「公私」の問題

① 現在の流動的な立場

 私たちの現在の葬儀理解は、葬儀は「私的なものである」という基本の上に成り立っています。それは、改革派・長老派教会の伝統だと言われます。ウェストミンスター会議によって作成された礼拝指針では「死者の埋葬について」という標題のもとで葬儀のことも触れられているのですが、埋葬だけ丁重に行えば葬式は必要ない、といわれています。そうして葬儀を教会の公的行事として行うカトリック教会に対抗したわけです。では何故教会がその私的な礼拝に手を貸すかといえば、それは教会としてではなくて、私的な交友関係においてであって、牧師は牧会的配慮から「私的に」遺族の慰めをするのにすぎない、という位置付けになるわけです。この点は先程のパンフレットにおいて泥谷逸郎先生が主張しておられます。

 

②「私的」とすることの問題点

 葬儀は公か私かという問題についてはもっと深い反省と議論が必要ですけれども、「私的」としてしまうことの問題点を私なりに挙げてみようと思います。第一に、葬儀そのものを軽視することがキリスト教の信仰生活にとって建徳的であるかどうかです。天に召される当人にすればもう天国にいるわけですから、あとはどうとでもなれと無責任なことを言っていられるのかもしれませんが、人が死ぬという出来事は、決して個人の勝手ではすみません。人の死を通して私たちは神が与えたもう命の尊厳を知るわけですから、誰もが通っていくこの道をきちんと教会の中に通しておくべきではないでしょうか。家族にとっても、教会共同体にとっても、これは一人一人の人生を神と教会に結び付けて受け取るための、かけがえのない機会です。偶像崇拝に対する警戒は日本という土壌にあって避けられませんし、簡素な葬式はそれとして独自の形態です。多くの未信者の方が改革派教会の簡素な葬儀に出席して感銘をうけたという話はよく聞くところです。ですから教会も独自の葬儀様式をもって共同体による神礼拝として位置付けることと偶像崇拝を避けることとは両立します。

 第二に、これは宣教の問題とも関係してくるのですが、信仰の継承ということを考えますときに重要になるのではないかと思います。日本のキリスト教会は、信仰の継承という問題については基本的に失敗しているという報告がなされています。それは、信仰はあくまで個人の思想の問題であって、個人的な回心は重要視されるけれども、クリスチャンホームの形成については消極的だといいます。契約神学に基づく改革派の伝統では、そういう信仰は考えづらいのですが、日本のプロテスタント全体としては個人主義的キリスト教が主流であるとはいえそうです。そうしますと、葬儀が私的領域にとどまるのは、実は偶像崇拝を遠ざけるのではなくて、いつまでたっても日本の教会がキリストに結ばれた共同体として実りをもたらさない原因にもなりかねないのではないでしょうか。墓地という問題を考えますときに、個人の信仰はそれとしてあるけれども、死ねば先祖の墓に入るという理解が根強いのも、そうした「私的領域」を裏口に用いているからではないかとも思われます。

 

「教会の葬儀」の意義

 伝道と教会形成研究所から出されました紀要『ミッション』の創刊号に安田吉三郎先生が葬儀についての講演を載せています。そこでは葬儀を教会のイニシエーションとして回復することによって、近隣地域に奉仕することができ、宣教の可能性が開かれていると述べられています。共同体の通過儀礼として葬儀を理解することは、宣教に益するというばかりでなく、信仰共同体の成員である私たちにとっても重要な問題ではないかと思います。「ゆりかごから墓場まで」の私たちの地上での歩みが教会共同体と切り離すことができないことは、幼児洗礼から葬儀において一貫するものではないでしょうか。確かに葬儀はキリストの定められた礼典とはなりませんが、結婚式をも含めて教会の公的行事と位置付けられれば、キリスト教的死生観が教会生活とぴったり歩調を合わせるようになります。教会の葬儀は、教会員が兄弟姉妹の地上における証しの生涯を、最後まで見送るための相互確認の場となるように思うのです。

 

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