第二回 改革派の伝統と多様性  2011年10月16日

序.宗教改革の伝統と多様性


ァ.宗教改革の伝統と礼拝における地域毎の展開

イ.プロテスタント教会の諸伝統における改革派教会の位置

ウ.礼拝の重要性に対するRCJの自覚

 

1.改革派教会の礼拝

 

ァ.改革派教会の礼拝の原則

イ.礼拝に関する教理

 

≪参考文献≫


竹森満佐一他『シンポジウム 礼拝論』東京神学大学1981年。

竹森満佐一『礼拝その意味と守り方』東京神学大学1992年。

望月明『み名をあがめさせたまえ礼拝を考える』聖恵授産所1991年。

榊原康夫『私たちのささげる礼拝』聖恵授産所1995年。

安田吉三郎「改革派教会の礼拝」『リフォルマンダ』(No.12-17) 1998-1999年。

吉岡繁『キリスト教会の礼拝』小峯書店1972年。

松谷好明「公的神礼拝の指針」『ウェストミンスター神学者会議の成立』1992年、211-265頁。

H.G.ヘイゲマン『礼拝を新たに』矢崎邦彦・高橋隆教訳、日本基督教団出版局1995年。

W.ナーゲル『キリスト教礼拝史』松村與志雄訳、教文館1998年。

J.F.ホワイト『キリスト教の礼拝』越川弘英訳、日本基督教団出版局2000年。

J.F.ホワイト『キリスト教礼拝の歴史』越川弘英訳、日本キリスト教団出版局2002年。

J.F.ホワイト『プロテスタント教会の礼拝その伝統と展開』越川弘英監訳、日本キリスト教団出版局2005年。

W.D.マックスウェル『改革派教会の歴史』勝田英嗣訳、一麦出版社2002年。

アメリカ改革派教会礼拝局編著『主の日の礼拝と礼拝指針アメリカ改革派教会における礼拝の理解のために』全国連合長老会式文委員会訳、キリスト新聞社2003年。

今橋朗、竹内謙太郎、越川弘英監修『キリスト教礼拝・礼拝学事典』日本キリスト教団出版局、2006年。

日本キリスト改革派憲法委員会第三分科会『紀要4号』2008年。

日本キリスト改革派教会憲法委員会第2分科会編『教会規定』日本キリスト改革派教会大会事務所2002年。

日本キリスト改革派教会大会出版委員会『教会ハンドブック 宣言集』聖恵授産所1996年。 

序.宗教改革の伝統と多様性

ァ.宗教改革の伝統と礼拝における地域毎の展開

 

 今回は「改革派教会と礼拝」という主題のもとでの2回目のお話となりますが、ここで改革派教会における礼拝論の基本線を紹介させていただきます。改革派教会で長年信仰生活を送ってこられた兄弟姉妹方には、すでに改革派の礼拝とはこんなもの、という凡その礼拝観を持っておられるかと思います。けれども、そうした多くの方は自分の教会以外の礼拝に出席された経験が無いまま、自分の教会の実践に基づいて自分なりの礼拝観を持つようになっているものと思われます。実際には私どもの教会には礼拝の意義や方針を定めた『礼拝指針』がありますし、教会で行われる諸式のお手本となる『式文』がありますから、日本全国どこへ行っても改革派教会の礼拝は大体皆同じでして、旅先で他教会の礼拝に出ることになった兄弟姉妹からはそれ故に安心感があるとも言われていました。けれども改革派教会の礼拝は、カトリックや聖公会のように、どの教会に行っても完全に同一のミサや礼拝が行われるのとは違っていまして、『礼拝指針』はあくまでも礼拝の本質を外さぬよう与えられた「指針」つまり「方向付け」ですし、『式文』もまた、その通り読まれねばならない祈祷文ではなくて、あくまでもお手本です。英国・スコットランドから米国に引き継がれ、そして日本に受け渡されたピューリタンの伝統では、ある一定の礼拝形式の自由を特徴としていました。

 ですから、その辺りをよく弁えた教会では、小会の監督の下に礼拝の形式や要素にある独自性を盛り込むことも試みています。例えば、賛美歌の選択について、『礼拝指針』にはどの賛美歌集を用いるべきか、というような具体的な支持はありません。日本キリスト教団の発行している1954年版の『讃美歌』が一般に用いられていますが、近年では『讃美歌21』に切り替えた教会もありますし、ギターやバンドによる演奏を用いてゴスペルを歌う教会も稀に見られます。礼拝式の要素でいえば、改革派教会の伝統では「十戒」を唱える教会が比較的多いのですが、私たちと同じようにそれをしていない教会もあります。また「罪の告白と赦しの宣言」を行う教会が増えてきましたが、これを実施する増えてきたのも最近の傾向です。

 北米改革派教会の牧師であり礼拝学の専門家でもあったヘイゲマン教授は、『礼拝を新たに』という著書の中で、改革派教会の礼拝の性質について次のように述べています。

 

 われわれにはアウグスブルク信仰告白といったものがないように、(アングリカンの)公同祈祷書といったものもない。われわれが神の言の究極的な権威に専心したことが、いかなる信仰告白文をも絶対化させなかったように、一つの式文書も絶対化させなかったのである。もし誰かが、これこそが改革派の礼拝の仕方である、と言うならば、それはナンセンスである。そんなものはあり得ないのである。歴史的に受け継いできた規範も、ひとたび、神の言によってよりよい教示を受ければ、明日にも廃棄されてかまわないのである。(ヘイゲマン『礼拝を新たに』、19-20頁)

 

 ヘイゲマン教授は改革派教会の中ではウェストミンスター信条をさほど重視しないブロードな立場でものを言っているようですが、歴史的に見て、また原理的に言って、改革派教会の礼拝には絶対的な形式というものはない、つまり、実際には多様な礼拝式があるということはその通りなのだと思います。ですから、私たちは自分が今持っている礼拝観というものを一旦脇において、改めて改革派教会の礼拝の本質はどこにあるのか、そして、今私たちに主から求められている礼拝はどのようなものになるのか、と問うてみる必要があります。

 改革派教会の特質を前もって一つ挙げておくとすれば、それは主の御前にあることの真剣さだといえるでしょう。そして、それは御言葉において御自身を差し出される神に感謝の応答をすることの真剣さだともいえます。改革派教会の実践が多様であるのは、無思慮に分裂を繰り返す傾向が歴史的に顕著であったといわれる反面、伝統を偶像化するような悪しき保守主義や停滞に抗して常に最上のものを神にささげるとの改革の精神に生かされてきた結果だともいえます。ですから、私たちの教会はものを考えない保守主義者ではなくして、伝統の上に立つ改革者です。私たちの礼拝に対する取り組みは未来に開かれていますが、何にしてもまずは基本から始めなくてはならないと思います。

 

イ.プロテスタント教会の諸伝統における改革派教会の位置


 ここで欧米のプロテスタント教会の内に認められる礼拝の諸伝統の中で改革派教会がどのような位置にあるのかを簡単に見ておきたいと思います。レジュメにあります表を見ていただきたいのですが、これは米国のジェームズ・ホワイト教授による分析で、9つの礼拝の伝統が表示されています。宗教改革以降のプロテスタント教会に属する教派は、今日に至るまで数え切れないほど増殖してきていますが、それを一つ一つ独自のものとして分類するのは実質的に不可能ですので、ホワイト教授は小さな教派このいずれかに属するものとして、全体で9つにまとめます。表の縦軸には時代が、横軸には中世の礼拝様式からの距離が表示されます。例えば、もっとも左にあるのは「クェーカー」ですが、これは中世カトリック教会の礼拝とは最も遠いところにあるわけです。逆に見ますと、「ルター派」の教会は最も伝統的で中世カトリックに近いことになります。

 

    <9つの主要な伝統>(ホワイト『プロテスタント教会の礼拝』、37頁)

 

この中で改革派教会は16世紀にその流れが生み出されて、伝統派と革新派の中間に位置づけられています。ですから、「アングリカン」、聖公会やルター派よりも自由な礼拝観と様式を持っていますが、「再洗礼派」、今日のメノナイト派やペンテコステ派よりも伝統的だと言えます。日本キリスト改革派教会はどうかといえば、16世紀の「改革派」に源を発して17世紀ではピューリタンに至り、つまりウェストミンスター信条を経過して、米国のフロンティア派の影響を受けながら明治期に日本に辿り着いた伝統の上に成り立っています。

 

ウ.礼拝の重要性に対するRCJの自覚


 私たち日本キリスト改革派教会が、そうした礼拝の伝統に対する理解をどれほど意識して受け継ぎ、それを検証・吟味してきたかは改めて問われねばなりませんが、創立二十周年の段階で礼拝に関する宣言を表明して教会建設を行ってきたことは、先に述べました神礼拝に対する真剣さを欠いてはいなかったことの証となります。宣言文では次のように述べられています。

 

 教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現す。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう。

 

ここには改革派教会の礼拝についての神学と実践とが凝縮されています。私たちの教会は主の日の礼拝を命として守ってきた。それは、私たちの功績ではなくて、主日礼拝から私たちが受けてきた恵みの告白なのですが、主の日の礼拝を命がけで守っていくところに改革派教会の神中心的・礼拝的人生観がある。これが、宣言文に表されている真剣さだと言えます。最初にお話ししましたように、改革派教会の礼拝を形作るところの要素ですとか形式には多様性が認められるのですけれども、それらを全体として支えているのは主の日の礼拝に神が臨在なさると信じて、そこに命をささげていく信仰であることをまず覚えておきたいと思います。

 

1.改革派教会の礼拝

ァ.改革派教会の礼拝の原則


 さて、ここから改革派教会の礼拝の原則についてお話します。もともと多様性のある改革派の伝統に共通するものという意味での原則ではなくて、私たち日本キリスト改革派教会が理解し、教会法によって指針を定めているところの原則です。「教会法」とは何か、そもそも教会法などというものがどうして教会に必要なのか、というところは今更ながら説明が必要なのかも知れませんが、今日はその点に関わる問題に深く入ることはできませんので別の機会に譲ります。一言だけ述べておきますと、私たちの教会は、国家と肩を並べる程の統治機関であって、国家とは別の霊的な統治をキリストから委ねられている、と理解しています。その統治の方法は、聖書の御言葉に従って、教会政治を行い、信徒の霊的訓練を実施し、礼拝の指針を定めて、この地上にキリストの見える教会を建設することです。それは、聖書に従えば、神との契約を実現する方法でもあります。

 そして私たちの教会が保持する教会法、もしくは憲法は、まずウェストミンスター信条です。その『ウェストミンスター信仰告白』の中で礼拝に関する次のような規定があります。21章の第1項です。

 

 まことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆に従って、何か可視的な表現によって、または、聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきでない。

 

ここには十戒の第二戒にある「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」という御言葉の規定が生かされていることはお分かりになると思います。表現がネガティブなので肯定的に言い直しますと、礼拝に関しては聖書以外の指針を持たないでよい、ということです。この背景には、伝統という名目で聖書には無い儀式やしきたりを強制されたことに反対するピューリタンの信仰があろうかと思います。ですから、同じ『信仰告白』の二十章2項と併せて読むと、それが信仰の自由の問題と結びついているわけです。誰もが聖書のみに従う自由を確保されるのであって、偶像崇拝にも等しい盲目的服従を強いられることは無く、良心の自由と理性に適う礼拝が保証されます。

 ここから、礼拝についての改革派教会の原理がもたらされます。それは、「規範原理」とも呼ばれますが、「聖書にないことは禁じられている」というものです。これに対してルーテル教会は「聖書にないことは許されている」としてカトリック教会から多くの様式をそのまま受け継いでいます。つまり、改革派教会では聖書と礼拝の関係が厳密に求められていったのですが、そこで聖書に書かれていること以外のものは極力そぎ落としていく努力がなされました。ツヴィングリに至っては音楽を排除してパイプオルガンも破壊してしまったほどでした。私たちの礼拝堂や礼拝形式が非常にシンプルなのはその為です。

 

イ.礼拝に関する教理

 

 では、聖書のみを基準として礼拝を形作る場合、実際にどのような手続きでそれがなされるのか。尤も、先に言いましたように、礼拝は神の民の歴史を一貫して聖書から現在まで連綿と続けられている訳ですから、私たちが無からの創造を行うわけではないのでして、それは教会の礼拝を吟味・検証し、取捨・選択を施して新たに刷新することを意味します。それがどのようになされるのかといえば、正しい聖書解釈に基づいて行われるということになります。

 ウェストミンスター信仰告白の一章6項には正しい聖書解釈の必要が述べられていて、そこで礼拝についても言及されています。

 

 神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何一つ付加されてはならない。神礼拝と教会統治に関しては、常に守らなければならない御言葉の通例に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない、人間行動と社会に共通のいくつかの事情があることを、認める。

 

「聖書の中に明白に示されている」場合はともかく、そうでない事柄を判断するには「正当で必然的な結論として聖書から引き出され」なくてはならない。つまり、正当な解釈が御言葉に適用されて、無理のない妥当な結論が導き出される、ということです。解釈には当然そこに人間的な判断が入りますから、絶対的な結論というのはあり得ないことになりますけれども、そこは聖霊の助けを祈り求めながら、単独ではなく共同で、教会の益となる示唆を、厳密な釈義を通して、また聖書全体から、尋ね求める努力をすることが要請されます。

 聖書の文面では必ずしも明白ではないけれども、正当で必然的な結論として聖書全体から導き出された教理の例としては、三位一体の教理ですとか、幼児洗礼が挙げられようかと思います。

 さて、この一章6項の後半に、「神礼拝と教会統治」に関する記述がありまして、ここにはある注記が施されています。それは、御言葉に従うという範囲内を出てはならないのだけれども、礼拝や教会政治という実践的な事柄には人間の分別を働かせねば決定できないようなことがある、ということです。理性や常識や教会的センスがそういうところでものをいう、ということを認めています。

 では、そうした判断が事を定めるような場合とはどのようなことかと考えてみますと、主の日の礼拝を何時に始めるか、などということは必ずしも聖書の事例をひかなくてはならない事柄ではないわけです。常識的に皆が集まりやすい時間が選ばれます。それでプロテスタント教会では大抵どこでも午前10時から10時半の間に礼拝の開始時間は設定されて慣例化されています。また、礼拝の場所をどこにするかということも適当な場所を選べばよいでしょう。会堂があればそれでよいのですが、会堂建築の最中とか、開拓伝道を始めるときとか、或いは主の日以外の礼拝をささげる場合とか、信仰の常識を働かせて選択すればよい。まさか神社の境内で礼拝をしようというようなことは思わないでしょう。他にも、主の日の礼拝を一日何回行うかとか、これも朝夕二回でなくてはならない絶対的な理由は無いわけです。韓国の大きな教会では一回の礼拝では会衆が入りきれないために一日に7回礼拝を行うところもあります。私たちの教会には教会を運営するための『教会規定』という憲法があって、そこで教会会議の規則や礼拝の指針など細かい取り決めがしてありますが、それがいちいち聖書の規定をそのまま実現したものではないわけです。憲法ですから拘束力がありますが、必要であれば改正することができます。

 私たちの教会では女性長老・教師の問題が長い間議論されていますが、これも理性的判断に基づくものの一つなのか、それとも聖書の直接的な規定に基づくものなのか、という点での合意がいまだ得られていないために決着がついていません。この問題の研究を委ねられた大会憲法委員会第一分科会が提出した結論は、聖書から直接導き出される規定ではない、ということでした。

 このように、改革派教会の礼拝は厳密に聖書の教えに則って考案・実施されるというのが原則ですから、理性的・常識的な判断を加えるにしても、どのように聖書を解釈するかということが問題になります。そこで、聖書を解釈するに当たって留意したい点は、聖書に示される礼拝の指針、大抵はこのように実施したという事例の報告ですけれども、そこに表示されている歴史的要素と、礼拝の本質に関わる要素とを注意深くより分けた上で、現在の私たちの実践に適用することです。例えば、初代の教会の礼拝は信徒の家でなされました。そして聖餐式も「愛餐」としてもたれる夕食会でした。では、その事例に倣って、私たちも礼典である聖餐式をちゃんとした食事会にしなければならないのか、というとそうではないわけです。愛餐の交わりは初代教会のまだ制度も整っていない時代の事情によって取られていた歴史的実践に属するもので、後の教会はその本質を抽出して教会の礼典として今あるような形に整えていきました。この歴史的事情に属するのか、それとも本質に属するのかという判別の問題は、案外難しいもので、教会でも必ず議論になるのですが、これを避けて通るわけにはいかないのが私たちの礼拝観です。伝統を重視するにしても、自由を主張するにしても、聖書と切り離された礼拝のあり方を求めないのが私たちの基本的な姿勢です。

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