第三回 改革派教会の礼拝式  2011年11月20日

1.改革派教会の礼拝

 

ウ.公的礼拝

 

2.改革派教会の礼拝式(リタージー)

 

ァ.礼拝指針・式文に基づいた式次第

 イ.改革派教会の礼拝式の特徴

1.改革派教会の礼拝

ウ.公的礼拝


 ローマ書12章でパウロが「あなたがたの生活を生きた霊的なささげものとして神にささげなさい」といっていますように、キリスト者の生活全体は神に捧げられた礼拝として営まれます。私たちの有神的人生観・世界観は、礼拝的人生観・世界観です。日常生活の中で何を為すにも思うにも神の御前にあることを覚えるということですが、それがはっきりと表明される機会が公的・私的になされる礼拝です。特に信徒が共に集ってささげる公的な礼拝によって、私たちの人生観や信仰生活の本質が明らかにされます。週の一日を聖別して神にささげることは、私たちの全生活が神にささげられたものであることをあらわすしるしです。

 ですから、日曜日だけが礼拝の日で、平日はこの世の生活、と区別されるわけではありません。公的に礼拝が行われるのは主の日になりますが、その他の日は専ら私的に礼拝がささげられて、教会生活・礼拝生活はキリスト者の日常生活を一貫します。公私の区別は聖俗の区別とは違います。

 公的礼拝は主の日に共同で行われる礼拝や、週日に定められた祈祷会を指していますが、その他にも家庭を中心にして行われる私的な礼拝が教会にはあります。家庭礼拝などはその分かりやすい例です。それは家族が自由に行うのだから教会は関係ないじゃないかと思われるかもしれませんが、公的礼拝を中心として各家庭での私的な礼拝へとの広がりをもつのが教会の礼拝です。家庭礼拝にも公的礼拝に準じた指針がありますし、牧師が家庭に招かれて礼拝をささげることもあります。

 私的な礼拝の中には、結婚式や葬式があります。これらは教会堂で行う場合がほとんどですし、公的な側面もあるのですけれども、カトリック教会とは異なってそれらは家族に属する私的礼拝としてささげられます。私的礼拝の今日的課題というテーマは、新しい礼拝指針の一つの眼目とされていますが、これについてはまた別の機会にお話ししたいと思います。

 

 主の日にささげる公的な礼拝において、その礼拝を真の礼拝に相応しくしているところの最も重要な要素は何かといいますと、御言葉と礼典(洗礼と聖餐)です。その御言葉と礼典が意味するところ礼拝の本質は、神が民を祝福することにあります。神は御子イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、ご自分の民をお救いになりました。そして、民に御言葉と礼典を与えて、ご自分が共におられることを証しされます。民は聖霊が臨在されることで、その証を確かに受け取ることができます。そして、御言葉によって示される罪の許しと永遠の命の約束がそこで民に祝福として与えられます。民の側では、こうした神の恵みに対して信仰と賛美をもって応答します。民の側でささげる奉仕はすべて感謝の応答となります。

 吉岡繁先生の簡潔な定義によれば、公的礼拝の本質は「イエス・キリストの仲保による、恵みの契約に基づく、神と民との交わり、または会見」です。礼拝が礼拝として成り立つには、まず神がご自分から人々を御許に召し集められて御自分の民とされる、という恵みの契約が基礎にあります。その民のかしらにイエス・キリストがおられて、すべての民の罪の贖いを果たし、神と民との間をとりもっておられます。そうして神と民がキリストの仲保によって互いに向き合い交わりをもつ機会が教会に備えられた公的礼拝です。

 そもそも教会とは建物や制度を指すものではなく、信仰によってキリストに結ばれた聖徒の交わりを指します。それゆえ教会は「キリストのからだ」とも言われますが、そのキリストのからだである教会本来の姿が見える形をとるのは公的礼拝においてです。この世にある限りそれは天国をおぼろげに映し出す影に過ぎないのかも知れません。ですが、私たちは公的礼拝をささげる中で、確かに「天国の前味」を味わいます。世の終わりに完成する神の国は、私たちがささげる礼拝の延長上に現れます。

 

 神の民による公的礼拝は旧約の時代から始まっています。尤も、今日の私たちの礼拝とはだいぶ様式が異なりますが、今日まで受け継がれている大切な意味と要素が旧約聖書に見て取ることが出来ます。

 極簡単に触れることしか今はできませんが、例えば、神の救いを体験した民が、神との契約に臨む場面がイスラエルの歩みの要所に現れます。モーセに率いられて出エジプトを果たした民はシナイ山の麓で神との契約を結んで御言葉を賜りました。これは出エジプト記24章に記されています。そのときモーセは民全体に向かって御言葉を読み上げて民にそれを守ることを誓わせ、その後、アロンと息子たち、また70人の長老を伴って主の山に登り、神の面前で食事をしました。イスラエルは世代が代わる節目にこうした契約の儀式を繰り返して、御言葉に従って神の御前を歩むように導かれました。

 また、イスラエルの民の内には礼拝所が設けられました。カナンの地に定着する以前は「会見の幕屋」と呼ばれる移動式の聖所が設置されて、祭司とレビ人が日毎の礼拝を行っていました。王国時代以降はソロモン王によってエルサレムに建てられた神殿が幕屋にとって代わりました。祭司やレビ人たちの職務についてはモーセの律法で定められていて、その規定に厳格に従った祭儀が執り行われました。その中心に置かれる動物を屠ってささげる礼拝には、民の罪を贖うという意味がありました。屠った動物は焼いて神にささげられて、ある物は祭司たちの取り分となり、ある物はささげた人々の会食に供されました。他にも祭壇に持ち寄られるささげものには穀物やパン、ぶどう酒が用いられました。また、罪の清めを表す所作として、ささげられた動物の血をとって民に振り掛ける行為があります。

 こうしてみると、私たちの礼拝の中心を形作っている礼典や説教のひな型が既に旧約聖書に見出されることがお分かりになると思います。少なくともそれらの儀式が担っていた意味が、新約の教会における実践へと移されているのは明らかです。聖餐式一つとっても、それは単なる最後の晩餐の記念ではなく、旧約時代に神が恵みの手段として民に与えておられた数々の礼拝方式を総合する形で、キリストによって制定されたと考えることができます。

 もう一点だけ旧約と礼拝の関係について加えておきますと、イスラエルの礼拝方式はモーセの律法の中で厳密に規定されていたことです。尤も後の時代になりますと、祈りのささげ方のような自由な発展も現れますけれども、礼拝は人間が勝手に考え出したものではなくて、神の言葉が民に恵みを施す具体的な手段であって、御言葉の恵みそのものでした。礼拝をささげることは律法を守ることであって、神との契約をそこで確しかめることができるリアリティ溢れる方法でした。そこからも礼拝における御言葉の中心性が察せられます。

 新約時代になりますと主イエス・キリストの十字架による唯一無二の犠牲がささげられたことによって祭壇はもはや必要でなくなり、様式よりも内実である信仰のささげものが重視されます。ヨハネ福音書424節で、主イエスが新しい時代の到来を告げて、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われましたが、それは新しい礼拝は神殿や祭壇によって真実な礼拝と認められるのではなくて、聖霊がそこに真の信仰を生み出しているかどうかが決め手となることを意味します。新約の教会では、キリストによって罪を赦していただいて神に近づくことのできるようになった民が、聖霊の清めに与って真の信仰をもって、清められた心でもって、父なる神にささげものをするようになりました。先に見ましたように、教会にも旧約から受け継いだ礼拝の諸要素が残っていますけれども、キリスト御自身が制定された礼典の他は、もはや律法に縛られる必要はなくなりましたし、聖霊が御言葉を通して民に命を与える方式が、教会の中で自由に発展します。後に教会の制度化が進むのに合わせて、礼拝式の順序が整えられたり、キリスト教の記念日が制定されて教会暦が整えられたり、次第に楽器も礼拝の中で用いられるようになって教会音楽が発展しました。これらは直接聖書から導き出されたものではありません。

 

 旧約から新約へと移行する段階で、公的礼拝をささげる時間の理解についても継承と発展がみられます。律法に定められた礼拝の日は、過越祭などの大きな祭りが行われる日も含んでいますが、捕囚期以降には週の六日目に当たる安息日が恒例の集会の日となりました。安息日の意味には二つあって、それぞれ旧約聖書の中に二つある十戒の記述に従っています。教会で朗読される十戒は出エジプト記20章にあるバージョンですが、こちらによると安息日は創世記1章にある天地創造の御業と結び付けられていて、七日目に主が休まれてその日を祝福し聖別されたから、その日に仕事をしてはならないとあります。もう一箇所は申命記5章でして、こちらの版によりますと、主が奴隷であったイスラエルをエジプトから救い出した下さったことを思い起こすために、休まねばならないといわれます。それらの両方の意味を兼ね備えつつ、後には安息日に会堂で公的な集会が行われていました。

 新約の時代に入って、初めの教会はこのユダヤ人の会堂で安息日の礼拝を守っていたようですが、後には「週の初めの日に」個人の家に集まって集会をもつようになりました。つまり、安息日は六日目ですから土曜日、キリスト教の集会が開かれたのは日曜日です。キリスト教会では、この日曜日をキリストの復活を祝う日として、「主の日」と呼びました。「主の日」という呼び方は旧約の預言者の伝統を受け継いでいますから、それは預言者が語った終末的な救いが成就した日という意味をも含んでいます。そこで生じる問題は、ユダヤ人から受け継いだ安息日と、キリスト教会が公的集会をもった主の日は別物なのか、何か関係があるのか、ということです。今日に至るまでこれは議論があって、歴史的な問題としては決着がつかないようです。安息日は創造時の制定なのだからキリスト教会にも普遍的に妥当するとして、安息日という聖日を守るべきという立場が一方にあります。他方、主の日は安息日とは別物だとして、新約時代には安息日を守るという規定は適用されないとする立場があります。この理解ですと「日曜日」は聖日として指定されていませんから、曜日は問題にならないことになります。なぜ日曜日に礼拝に集うのかといえば、その国や土地の事情で会衆が集うのに都合がいいからです。実際、こういう議論が改革派教会の中でも行われたことがありました。

 けれども、日本キリスト改革派教会が信仰基準としているウェストミンスター信仰告白によりますと、公的礼拝をささげるのは「主の日」か「安息日」かという二者択一の問題ではなく、キリスト教会が安息日を主の日として再解釈して受け止めるようになったとしています。217項ですが、ここはそのままお読みしておきましょう。

 

 一般的に、正当な割合の時間を神礼拝のために聖別するということが自然の法則であるように、神は、み言葉において、すべての時代の人に義務を負わせる成文的・道徳的・永久的な命令によって、安息日のために七日のうち一日を特に定めて、神に対しきよく守るようにされた。それは世の初めからキリストの復活までは週の終りの日であったが、キリストの復活以後は週の初めの日に変わった。これは、聖書で主の日と呼ばれ、キリスト教安息日として世の終りまで継続されねばならない。

 

神が民に与えられた安息日は人類に与えられた普遍的な法則であってキリスト教会でも守らねばならない。ただ、新約時代においては、聖別すべき日はキリストが復活された週の初めの日に変更されたので、教会はキリスト教安息日として主の日を重んじなければならない、ということです。ですから、これによれば公的礼拝の日は日曜日から動かせませんし、この日は安息日ですから仕事を休んで神に一日をささげる日となります。

 

2.改革派教会の礼拝式(リタージー)

 

 さて、ここから改革派教会で行われる公的礼拝の特徴をいくつかお話したいと思います。まず、レジュメにあります「リタージー」という言葉を先に説明しておきます。最近ではそのまま訳されずによく用いられるようになりました。どんな形式であれ礼拝のことを直接さす場合は、英語では「ワーシップ」が通常用いられます。「リタージー」といいますと、ある伝統的な様式を持った礼拝のプログラム、もしくはその順序や構成要素をさしています。改革派教会のリタージーには、ある特徴が共通するものの、様式自体は一様ではない、ということは前回にも触れたとおりです。リタージーにはその教会の礼拝についての理解(神学)や伝統ばかりではなく、土地柄ですとか民族性とかが影響します。

 日本キリスト改革派教会の礼拝式は、戦前の旧日本キリスト教会の伝統を受け継いだもので、原則としては厳格な礼拝形式が定められてはいません。これは、大陸の改革派というよりもスコットランドの長老派の伝統から来るもので、長老派の伝統では「礼拝指針」で方向性を定めるだけで固定した式文はもちません。それには英国・スコットランドの歴史的事情が絡みますが、それは今日触れることは出来ません。

 実際、私たちには「礼拝指針」と「式文」の両方がありますが、これは世界の改革派教会の中でも珍しいことで大抵はどちらかです。私たちの「式文」は拘束力の無い、司式者のためのお手本と考えていただいたらよいと思います。

 そこで「礼拝指針」に基づいて日本キリスト改革派教会のリタージーの特徴を見てみましょう。「礼拝指針」は一昨年、全面的に改正されていますが、長老教会の原則を知るには簡潔な旧版の方が都合がいいので、そちらを参照することにします。

 章立てを見ますと、第一章では「主の日の聖別」とありまして、公的礼拝がささげられる日の特定とその日の過ごし方が述べられます。第二章は礼拝をささげる際の心構え、そして、第三章で「公的礼拝の要素」が挙げられます。その中で項目立てられているのは、「聖書朗読」「讃美歌」「祈祷」「説教」「献金」の五つです。この他、「聖礼典」が含まれるはずですが、それは「洗礼式」「聖餐式」として独立した章立ての中で扱われています。

 『式文』に記載されている礼拝式順は二通りで、日本キリスト改革派教会で行われている公的礼拝の順序はだいたいこの通りの形式で統一されています。この中にある「交読文」や「罪の赦しの宣言」、「信仰告白(使徒信条)」等は旧版の『礼拝指針』では取り上げられていない諸要素ですが、『式文』にありましたのでよく実施されて今日に至ります。

 『礼拝指針』にはこうした式順の規定はありませんので、先の5つの要素と聖礼典を含んでいれば公的礼拝が成り立つことになります。そして、これらをもって改革派教会の礼拝の特徴と言うことができると思いますが、実際、どれほど特徴的かどうかは分かりません。

 これらの諸要素について簡単な説明を加えておきますと、「聖書朗読」が「説教」と切り離されているのが特徴です。これは、朗読に独自の意義が認められていることを表していまして、説教のために聖書が読まれるわけではありません。御言葉の朗読はそれだけで民の耳に確かに届いているものです。私たちの礼拝では、讃美歌を歌うときには起立しますけれども、聖書朗読のときは座っていますね。けれども、オランダの教会などでは逆なのだといいます。御言葉を聴く時は起立して、讃美歌を歌うときは着席しているということです。御言葉を聴くことの意味合いの相違がそこに現れているのかも知れません。

 そうしますと、では礼拝での聖書朗読と説教の関係は何か、という問題がそこに出てくるのですが、これはまた別の機会にお話します。

 「讃美歌」については、『礼拝指針』で「詩編と讃美歌」とありましたように、「詩編」を歌うことが改革派・長老派の伝統でした。日本ではそれに相応しい詩編歌が十分整っていなかったこともあって、日本基督教団の『讃美歌』に含まれている交読文を用いたり、直接聖書から詩編の交読をしたりしていました。

 「祈祷」の特徴はといえば自由祈祷であることが最大の特徴であるかと思います。カトリックや聖公会では祈祷文を用います。その場合の祈祷文は文例ではなくて、拘束力をもった祈りです。勝手に言葉を変えてはならないということ。改革派教会でも式文は用いますが、既にお話したとおり、それは例文であって、拘束力はありませんし、それだけに頼ってもならないものです。

 通常は説教前になされる「牧会祈祷」というのも特徴的であるかも知れません。『礼拝指針』にもそういう言葉遣いは表れていませんので、定義の難しいところです。おそらくこれは旧日基の伝統で、牧師が教会員のためにいろいろと祈ったのでしょう。『礼拝指針』では『説教前の祈り』となっていて、その内容は教会員のためというよりは、この世のために祈る様々な執り成しの祈りです。この祈りのささげ方は、実は礼拝式の順序と深い関係がありますので、今後よく検討する必要がある部分です。

 「説教」の特徴は、聖書の釈義的な連続講解説教が伝統的なスタイルです。これもお話しすると長くなるので別の機会にしたいと思います。最近ではスタイルの上では種々の説教が現れているのは皆さんもご存知の通りです。

 「献金」は、礼拝の中でささげるのが私たちがずっと行ってきた仕方です。献金は元来、聖餐式と深い関係にあったのですが、それが切り離されて別の要素となって礼拝式の中に定着しています。これもまたいずれお話したいと思います。

 

 さて、他の点から改革派教会の礼拝に特徴的なことを幾つか挙げておきたいと思います。これも、実際、どれほど特徴的なのかどうかは分かりません。けれども、長年実践してきて、ほぼ固定している、という意味で「特徴」といっておきます。

 まず、主の日の公的礼拝は、朝・夕の二回行われます。最近では夕礼拝をやめるところが増えていますが、朝と夕に礼拝をささげて、一日を聖く保つことが目的とされていました。夕礼拝を行う時刻もだんだんと変わって今では午後に行う場合が多くなりました。これにも諸々の事情があるのですが、これについては次回お話したいと思います。

 「祈祷会」は公的礼拝だとは『礼拝指針』では位置づけられてはいませんけれども、定期的な開催が呼びかけられている公的な集会です。祈りのための集会である他は、特別な規定はありません。実施方法は、聖書研究会に限りません。『礼拝指針』によりますと、「祈祷会の内容は、祈り・賛美・聖書朗読・教え・すすめである」と内容の規定がされていますが、もっと具体的には「祈祷会は、聖書研究、伝道・スチュワードシップ・教会史・教会とその計画に関する諸問題の研究により、または伝道的その他の宗教的催し物によっても、みのりゆたかにされる。牧師と小会は、霊的な・興味ぶかい・活気ある祈祷会にするよう努力すべきである」と勧められています。もともと祈祷会は、宣教師が日本で伝道していくに際して、一週間に一度の礼拝では信者の信仰が維持できないと考えて始めたとも言われます。妥当であるかどうかはともかくとして、夕礼拝と祈祷会への出席が教会員の献身のバロメーターとして作用して、教会の役員が選ばれる傾向もありました。

 

 それから日本の改革派教会は、教会暦を用いてきた教会です。厳格なピューリタンの教会では、それらをカトリックの悪しき遺産と考えてクリスマスも何もまったく行わない処もありますが、我々はクリスマス、イースター、ペンテコステ、宗教改革記念日をまずどの教会でも祝います。今日では、むしろ積極的に教会暦を用いようという動きがプロテスタント教会の中にも出てきています。アドベントを皮切りに、一年間を通して主イエスの歩みを暦に従った御言葉で辿る道行です。

 

 さて、ここまで改革派教会の礼拝の基本についてお話してきました。その歴史的背景や聖書との関係、神学的な意義などはここからの学びとなりますが、おいおい取り上げてお話できたたらと考えています。次回は、私たち改革派教会が礼拝の実際について考えるべきと思われる点を幾つか取り上げて、改革派教会の礼拝の課題としてお話したいと思います。例えば、夕礼拝の実施について、献金の祈祷について、契約の子の教育と礼拝の関係について、讃美歌選択の基準について、などです。こうした問題は新しい礼拝指針の関心事となっていますが、まだ十分深めて論じられてはいないところです。私たちの実践と合わせて考えてたいと思います。

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