福音宣教への召しー伝道の宣言に学ぶー

牧野信成

はじめに

  今年の標語「キリストの証人として生きる」

  伝道に関する基礎的な理解を聖書から学ぶ

1.伝道の根本理由

  主イエスの大宣教命令(マタイ28章18〜20節)

  改革派教会創立40周年記念宣言「福音の宣教について」(朗読)

  改革派教会創立50周年記念宣言「伝道の宣言」(前文朗読)

2.神の国の福音の宣教

  神による救済のご計画(救済史)と根本動機である愛

  宣教とは神の永遠のご計画に基づく神の主体的な働き

  地上に教会が建てられた理由

3.福音宣教が為される場

  礼拝への招き-神の言葉が語られ、聞かれる場-

  教会の公的活動/教会員による個人の証

  超教派的活動への協力とその注意点

    教派性について:教会論と宣教論の切り離し難い関係

    「改革派教会」について学び続ける

4.西神教会のビジョン

  地域への伝道-20年を振り返って-

    板宿教会の協力と伝道費の予算、区民センターでの集会、会堂建築

  平和への関心:西神NT9条の会との関わり

  家庭集会:西神NT諸教会との交わり

  家族・知人への伝道-個人の霊性を高める-

 

講 演

はじめに

 今年の年間標語は「キリストの証人として生きる」です。これには西神教会が主の救いに感謝して喜んで伝道の働きに召される、という意味が含まれています。今回の修養会では、その線に沿って、私たち西神教会の伝道について一緒に学び、語り合いたいと願っています。そこでまず、伝道とは何かということを改めて確認しておきたいと思います。こういう風にいつでも原点に立ち戻って学ぶ、というのは改革派教会の生真面目なところでしょうか。それを嫌がる風もあるかも知れませんが、これは教会の信仰にとってとても重要なことだと思います。伝道をするのは当たり前、と考えるならばそれでよいのかもしれませんが、そう言っている場合に、案外、伝道熱心ではあっても正しく理解していないために、独りよがりになっていたりします。それで一時熱心であっても熱が覚めるとぱったりとやめてしまう、とか、屁理屈をこね出して伝道しないでも構わないんだと開き直ったり、ということもあります。けれども、伝道は聖書から教えられるところの神ご自身の働きです。ですから、そのことをよく弁えて、私たちはまず学ぶことから始めなくてはなりません。

 そこで私たちは、一から小難しい議論をしなくても構いません。しても構いませんが、それは自由にお任せします。私たちの教会は、大会創立50周年に合わせて、「伝道の宣言」を採択しています。これは私たちが伝道について聖書から学ぼうとするときの基礎的理解となるようにまとめられたものです。もちろん、それ自体を議論することをしてよいのですけれども、まずはこの宣言文をテキストにして、伝道に関する基礎的なことを私たちは理解できます。ですから、今日は「伝道の宣言に学ぶ」ということで、西神教会の伝道の具体的な方策を考える前に、その理解を宣言から確認したいと思います。

1.伝道の根本理由

 では、伝道は何故するのか、という問いに皆さんはどうお答えになるでしょうか。すぐに思い浮かぶのは『マタイによる福音書』の最後にある主イエスの「大宣教命令」でしょう。復活した主イエスは山の上で弟子たちに会い、「あなたがたは言って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とお命じになりました(28章20節)。以来、教会はその命令に忠実に従って伝道に献身して今に至っています。では、主イエスが命令したから私たちは伝道しなければならない、だけで十分でしょうか。もしそれだけであれば、何をどのように語ろうと、伝道して未信者に洗礼を受けさせればそれでよい、ということになりはしないでしょうか。キリスト教会の歴史には、異教たちを脅迫したり拷問してまで改宗させた時代が西欧にはありましたが、命令に従うだけならばそれもよいということになります。

 主イエスがお命じになったから、と単純に言ってのける人は、案外「大宣教命令」そのものをよく理解していません。イエスが語った御言葉をそのまま引用するとこうあります。

 わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

ここには、単に主が命じておられるだけのことではない多くのことが盛り込まれているのがすぐに分かります。主イエスはまず、ご自分が天と地の主権者であることを述べておられます。この主イエスの主権の下で、弟子たちは「行って」と派遣されるわけです。ですから、弟子たちの伝道の業は主イエスの権能を自分が奪うような形で行ってはならない。例えば、自民党が憲法改正で目論んでいる天皇の主権を教会が認めれば、もっと日本人もキリスト教に帰依するようになるだろう、などという見積もりで伝道するわけにはいきません。主イエスの御旨に適った事柄を、御旨に適った方法で行わなくてはならない。その導き方については「すべての民を弟子にする」とあります。さらに、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」とか、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教える」という具体的なことに触れています。そして最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、終末に向かって伝道が進められる方向性と約束とがそこに示されています。

 このように伝道について理解しておかなくてはならないことは、この聖句から始めて聖書の全体から学ぶことが実に多くあります。ですから、分かったつもりにならないで、まずは聖書から主の教えに耳を傾ける姿勢で出発しないと私たちの伝道は始まりませんし、主の御旨に適ったものにはなりません。

 そうしたことを弁えた上で、改革派教会は「伝道の宣言」を作りました。伝道の困難な時代に促されて、その基礎作りをしようと志したわけです。この50周年記念宣言「伝道の宣言」は実に周到に整えられた内容ですが、これに先立つ40周年記念宣言に「福音の宣教について」という短い文章がありまして、これが、その10年後の伝道の宣言に引き継がれた形になっています。その40周年宣言の第三部「福音の宣教について」も簡潔で明瞭な文章ですから、まずはそれをご一緒に読んでみたいと思います。

(朗読)http://www.ogaki-ch.com/declaration/40th.htm

 今回は、聖書をいちいち引きませんので、調べてみたい方はそこにある参照箇所をご自分で開いてみてください。宣言文の一つ一つの丁寧な解説もしません。その主旨を辿っておきます。今日は「伝道」と「宣教」の細かい区別はしないでお話しします。同じと考えてください。

 まず、「一」の「福音の一般的提供の根拠」での要点は、伝道の根拠は神にある、ということです。「神が救いを提供される」とまとめています。これは伝道について考えるときに一番大切なことです。自分の信仰の実力を測る手段のように伝道する熱心な人もありますが、それが本当に主の御業なのか、自分でも気がつかない自分の情熱なのかは注意深く吟味しないと危険です。聖霊の促しによって福音を語る人は実に自然に語っていますから決して押し付けがましくありません。

 それから「全人類に」「すべての人に価なしに提供される」という伝道の対象です。これは主イエスの大宣教命令にもあらわれていました。予定の教理の誤った理解に基づいて、もしキリスト教会が宣教の対象を限定するならば、それは正しい伝道理解ではないということです。神は預言者ヨナをイスラエルの敵であるアッシリアのニネヴェにお遣わしになりました。

「二、外的召命」では、三位一体の神の業である伝道が、一体どのようにして人に働くかの本質的な部分を論じています。それは、語られた福音が人の心に働きかけて回心へと導くのだ、ということです。これを教理の言葉で「外的召命」と言います。ここでも、信仰は人間の気の持ちようだ、というような曖昧さはありません。聖書の福音が人の心を捉えて、救いを受け入れるようにする。人がキリストを信じるようになるのは、その他の理由ではないということです。教会で実施する洗礼が曖昧ですと、この点が曖昧になります。例えば、どうしてキリスト者になったのですか、と質問して、いや、宗教を持っていた方が安心だから、などという返事が帰ってきたりしますと、そこには「外的召命」はないのが分かってしまいます。教会が会員数を増やすのにやっきになって本質である聖霊の御業を忘れると洗礼が形ばかりの力のないものになってしまいます。

「三、福音への応答」はその一連の御業の続きで、特に福音を聞いた者に起こる二つの反応です。最初の文にある「義務と特権」という言葉が特徴的ですが、ここには人間の感情を越えた応答の仕方がよく表れていると思います。キリストによる救いを語る福音は、ただ「信じればいいことがあるよ」という誘い文句ではなくて、救いの真理です。罪のために神の裁きによって死にかけている人間は、赦されなくてはならない、救われなくてはならない。そこに神が福音を語る根本的な理由があります。ですから、福音を聞いて受け入れることは人間の「義務」と言われます。そうすると、それを拒むとどうなるか。救いを拒むのですから、救われないままです。神が福音を語る、というのは、そういう生と死のせめぎあいを生じさせるような、真剣な場面で行われます。

 ここで誤解をしないようにしたいのは、まず「義務」についてですけれども、それは同時に「特権」だと言われます。つまり、信じるようになったのは神の恵みが働いたからで、その義務に答えた自分の功績があるわけではありません。それから、「自分の落ち度で滅びる」と言うのは、最終的に拒み続けるならばそうなるということですから、一度拒んだらお終いではない、ということです。もしそうだとしたら、イエスの弟子たちは生前のイエスに躓いてすべて滅んでしまったことになります。

 最後の「四、教会の世界宣教」は先に見た主の大宣教命令そのものです。強調点は伝道の世界的な広がりですけれども、そこで伝道は「全世界にわたってキリストの御国を拡張すること」とあります。その世界的広がりのなかに神の国をつくることに、私たちは奉仕します。それが、「すべての信者の義務である」とあります。ですから、伝道に関わらない信者は教会に一人もいません。自分の好き嫌いで論じるようなことではないということです。伝道したくないという人は、まず主の御前に申し開きをしなければならないことになります。もちろん、義務だからといって、誰も強制されはしません。信仰から生じる義務は、主に仕える喜びから来る自発的なものだからです。けれども、その自発性を取り違えて、個人の自由を主張するあまり、主が私たちに求めておられる義務そのものを否定するような主張をするならば、それは信仰から来るものではない別のイデオロギーによるものでしょう。

 こうして、すでに「40周年宣言」において聖書に基づく伝道論の骨子は示されているのですが、これをさらに積極的に展開したのが「50周年宣言-伝道の宣言」です。今度はその序文を一緒に読むことにします。

(朗読)http://www.ogaki-ch.com/declaration/50th.htm

 この序文に既に全体の特徴がよく表れています。ポイントは「神の国」という言葉にあります。主イエスもご自身の宣教の始めに「悔い改めなさい、神の国が近づいた」と呼びかけました。

2.神の国の福音の宣教

 「伝道の宣言」が前半で述べるのは、神の国の進展として認められる福音宣教の働きです。それは天地創造から始まって終末の完成に至る、聖書で明らかにされた、神による救済の歴史です。それは「神の国の福音の宣教」というタイトルのもとで、1〜7に要約されています。

 神が創造された天地万物、とりわけ人間は神の栄光の顕れとして祝福に満ちていました。しかし、人間はエデンの園で神の言葉に背いて罪を犯し、世界全体を堕落させ、死の裁きを招きました。その為、エデンの園の外で始まった人類の歴史は、一方で文明の発展と人口の増加において創造の祝福を受け継ぎながら、他方で罪と死に苛まれながら地上を歩む苦痛と悲しみに満ちた歴史を辿ることになりました。そのような世界の中で神はアブラハムを選んで彼を祝福の源とし、契約を結んで彼の子孫を増やし土地を与えるとの約束を与えて、その独特の関係の中にご自身の真実と人類への希望を示されました。旧約聖書に表された神の民イスラエルの歴史は、やがて来る神の国を指し示す道標として人類全体に向けて語られたものです。(1)

 そして、旧約で告げられた預言に従って、神は御子イエス・キリストを世に生まれさせました。人間を罪の滅びから救う神の御計画の中心には、イエス・キリストがおられます。キリストは十字架の死によって罪の赦しを実現させ、復活によって新しい命を保証されました。神の国は、その時から、イエス・キリストと救いの真実を受け入れたキリスト者によって、この世に実現し始めました。(2)

 「神の国」とは、天で栄光をお受けになった、イエス・キリストの御支配のことです。その御支配が、聖霊によって地上に教会を生み出します。キリストに贖われて新しい命に生き始めたイエスの弟子たちは、聖霊の力によって主イエスと共に世界に福音を宣べ伝えました。そうして、神の救いは数え切れない程の人の魂を救い、神の国を押し広げて今日に至ります。(3)

 聖書で明らかにされた神の御計画は、終末の完成までを含んでいます。最後には天にいるキリストが再び世界に来られて、復活の命を与えられた者たちと共に神の国が完成します。その時へと向かう途上にある私たちは、世の終わりまで主イエスと共に福音宣教の働きを続ける務めを与えられています。これは、キリストの救いによって神の子とされたキリスト者の新しい人生観だと言えます。ですから、私たちはいつも救いの喜びを新たにして、伝道という尊い務めに喜んで献身します。洗礼式は教会の最大の喜びだと言ってよいと思います。なぜなら、そこに生きて働く福音の証を見るからです。(4〜7)

 1から7までをまとめてざっとお話ししました。これが聖書から私たちに教えられている伝道の基本的な理解です。私たちは福音宣教、伝道ということを、こうした歴史の大きな枠組みで捉えています。私たちは終わりを目指して進展し続ける神の国に生かされていて、主イエスと共に伝道に生きるのだ、ということです。改めて強調して置きたいことは、その為に神は地上に教会をお建てになったことです。これは4で特に記されているところです。地上の目に見える教会はそれ自体が神の国ではありませんけれども、それ無くしてキリストに養われる「群れ」ではあり得ません。自分本位な個人主義的な考え方で、制度的教会の真意を見損なうならば、伝道もまた空を打つ拳闘になってしまいます。

3.福音宣教が為される場

 さて、「宣言」の後半は創立50周年という節目に改革派教会が直面している日本社会の現状を踏まえて、伝道の実践的な展開を目指した内容となっています。必ずしもこの順序ではありませんが、これを参照しながら、私たちの伝道への取り組みについてお話しします。

 まず、福音宣教がなされる場についてです。第一に、それは礼拝である、とは「宣言」も述べている通りです。毎週、主の日にキリスト者は礼拝に集められます。そこで、キリストとの関係を確認し、御言葉に養われるためです。そして、神の祝福を受け止めて、主イエスと共にそれぞれの持ち場に派遣されます。ここに神の国の現実があるわけです。ですから、この礼拝を中心とした信仰生活に人を招くことが伝道だということになります。イエスは信じるけれども教会は嫌だ、というのは特別な事情がない限り、謝った福音の理解です。特別な事情というのは、そういう精神的な病いも考えられるからです。また、洗礼を施す状況には、病床での洗礼や臨終間際の洗礼もあります。心から願っていても、主日の礼拝に集えない人もあるわけです。それでも、御言葉と祈りを通して、そういう兄弟姉妹にも救いの恵みをくださいます。しかし、通常は主日礼拝の場で、主が御言葉をお語りになり、私たちが聞く耳をもって聞くことで、先ほど触れた「外的召命」が起こります。礼拝に誰かを招くということは、私たちがおそらく一番心がけている点ですから、これは言うまでもないことかも知れません。

 合わせて、教会には主日礼拝以外の伝道の場が多く設けられています。特別伝道集会はその最たるものですが、教会の承認を受けた家庭集会や音楽集会、地域への奉仕活動などを挙げることができます。しかし、何を行うにせよ、そこには教会員の協力が必要です。教会活動が自分自身の養いで満足しきってしまわないように、いつも伝道への情熱を保つことができるようにしたいところです。

 ただ、そこで注意したいところは、やはり、主日礼拝で御言葉を聞く、ということです。伝道活動を幅広く展開するようになりますと、案外そこが疎かになります。これは主に、牧師の問題です。ある他教派の教会では、主日以外の週日がほぼ毎日なんらかの活動が行われていると聞いたことがあります。季節ごとのイベントがあって、運動会さえあるのだそうです。それらすべてが伝道のための教会活動であることは確かでしょう。けれども、そうなりますと牧師や副牧師も含めて奉仕者たちは、行事のやり繰りで手いっぱいになるはずです。実際そうだとも聞いています。主日礼拝の説教準備のために時間も体力もどんどん削られてしまいます。そうした教会では語られる説教は御言葉を説き明かす説教ではなくなってくるはずです。その時の思いつきで語ったようなお話し説教を私も何度か聞いたことがあります。そうしますと、そこには伝道の熱心はあるけれども、内実がないことになります。先に確認したように、私たちは語られた御言葉が正しく理解されて、そこに悔い改めが起こったところで伝道の目的が果たされたことを確認します。情にほだされて洗礼を受けた、では意味がないわけです。ですから、御言葉に仕えるために牧師は説教の準備にそれ相応の時間をささげ、しかも継続的な自己研鑽をして行かなければとても、説教による伝道の奉仕は務まりません。ボンヘッファーは教会がキリストの救いを「安価な恵み」にしないよう警告しましたが、これは福音を安売りするような伝道活動にならないように、と敷衍することができます。もちろん福音は無償で誰にでも手渡されます。しかし、その価値はキリストの命がかかっているのですから絶大です。それをその通りの尊いものとして、どのように確かに手渡すことができるかが私たちの伝道の課題です。

 主日礼拝以外の公的活動による伝道は、西神教会の実情に合わせて知恵を絞らなければなりませんが、その前に、教会員個人による伝道についてお話ししておきます。個人の伝道をことさら奨励しているような教会では、その教会ならではの型があるようにも思うのですが、私としては、やはり個人個人の霊性が鍵になると考えています。いつか鈴蘭台教会の元牧師であった入船尊先生が、個人伝道の手ほどきを神学校でなさったことがあったかと思うのですが、改革派教会の信徒はそういう教育を受けたわけでもないので体質的には苦手なのではないかと思います。福音派の真似をすればよいとは思わないのですが、自分の信仰を人前で証したり、友人や知人を怖がらずに礼拝に誘うことができるようになるためには、やはり自分で確信をもってないとできません。「確信」とは信仰の論理でもありますけれども、それに伴う実感にいつも生きている、ということです。改革派はこういう教理をあまり発展させて来なかった嫌いがありますけれども、カルヴァンの著作を読んでいると伝わってくるものがありますし、時々言葉にも直接表れます。信仰は内なるものですけれども、聖書を読み、祈り、瞑想することによって、その人の人格を新しく作り上げて、言葉や行いにも変化をもたらします。信仰そのものは福音による恵みですが、その信仰の発露を修練によって磨くような取り組みが、もっと豊かになされてよいと思います。それが、私たち一人一人が生活の場で伝道を行う際の力になるはずです。

 もう一つ伝道の場について述べたいと思います。「宣言」では15に挙げられている「伝道における協力」です。そこでは「互いに一致協力することの必要」が訴えられていて、「聖書翻訳と頒布事業の支援、文書事業の促進、マス・メディアの活用、キリスト教主義一般教育への協力、福祉事業の推進など」と具体的な協力の場が上がっています。この点でも、改革派教会は超教派的な伝道協力をしてこなかったわけではないのですが、苦手としてきたのは事実ではないかと思います。今後も協力して行こうという方針には私も賛成ですが、ただ、協力する際にやはり注意しなければならない点があると思います。

 キリスト教諸教派が協力する、という場合に、その目的によっては様々グループとの協力が可能です。例えば、政治的な面であれば、靖国神社公式参拝に反対するという点で、私たちの教派は「共闘の論理」を掲げて、教派・宗派を超えて、協力体制を作って闘った経験があります。けれども、伝道を目的とする場合には、やはり今日確認してきたような伝道理解が私たちの側にありますから、同じ伝道でも理解が異なる場合には協力が難しくなります。それで先に見た「宣言」でも「特に同じ信仰と伝統を共有する諸教会との交わりと協力において具体化されていきます」とあるわけです。

 伝道の理解が違う、という場合に、どう違うかと言いますと、福音主義諸教会では教理の点ではさほど違いがないかもしれませんが、根本的なところで重大な違いがあることもあります。このところ祈祷会でメイチェンの「キリスト教とは何か」という本を読んできましたが、そこでも強く思わされたことです。教理的な裏付けのない伝道は、信じる御利益を語って説得に成功したとしても、教会に結びつく信仰に至りません。信じて洗礼を受けても福音がその人の魂に根をおろすことがないので、嫌なことがあると直ぐにも教会を離れてしまいます。福音が根おろすとは、そこで語られている聖書の教えが正しく理解されて、その人の信仰生活の養分となる、ということです。私たちの理解では、伝道と教育とは一つです。神の国を建て上げる教会の働きに、神が罪人をキリストにあって召し上げるのが伝道ですから、洗礼を受けてキリストの元に召された人は、そこから聖書に学んで教会で奉仕する働き手になります。改革派教会では度々「教育的伝道」という言葉が聞かれました。

 メイチェンが書物で憂いているのは、そうした教育を嫌う傾向が生じて、キリスト教ではないキリスト教が宣伝されている、という100年前の米国の状況でした。同じような状況が、日本の福音宣教の現場でも見られるのではないかと思われます。プロテスタント教会には種々の教派はあるけれども、大差ないからどれでもよい、などと安易な超教派運動に同調しますと、それは結局のところ聖書や教会法といった教会の規範を蔑ろにして、堅固な土台をなし崩しにする方向へ流される危険性があります。現にそういう方向へ改革派教会も幾分流されてきたのではないかと思う節もあります。

 先に言いましたように、私たちが超教派的な伝道協力に進むのは間違いではないと思いますが、まず私たちが、自分が旗印としている聖書の教理、信仰告白について十分理解した上で、福音主義を奉ずる他教派と協力することが欠かせないでしょう。「改革派教会」「改革派信仰」とは何かを学び続けることなくして、伝道、伝道、と言ってみてもキリストの教会は建ちはしない、ということです。

4.西神教会のビジョン

 西神教会の『20周年記念誌』が発行されて、教会の歴史が振り返り易くなりました。これを参考にして、これからの西神教会の伝道方針を建てゆくことが出来るかと思います。私たちは西神ニュータウンでの開拓以来、地域へのアプローチを続けて来ました。賜物からしますと、地域の子どもたちへの伝道が、ある一定の成果を挙げてきたのではないかと思われます。その子どもたちが洗礼を受けて教会員になるところまでは追うことができませんが、こひつじ会を通して福音に触れた子どもたちが地域に着実に増えていきました。これは弛まない種まき伝道であったと感謝できます。

 伝道所時代には、西区民センターでの音楽集会が数回持たれて、それをきっかけに私たちの教会へ来られた方もあったかと思います。200名近い参加者があった回もありましたように、ニュータウンの大勢の方々に触れ合う効果的なイベントでした。私は経験していないのですけれども、予算さえ許せばしてみたいとも思いました。伝道所時代は板宿教会の経済的な援助もありましたから、それも可能だったのですけれども、現状では無理かもしれません。伝道費の増額を見込みながら、将来的には考えても良いのではないかと思います。

 そして、西神伝道所の教勢が拡大した一つの大きなきっかけは新会堂の建築でした。糀台4丁目から現在の2丁目への移転は、会堂が一気に駅近くの表通りに直面することになって、教会の存在が通りの人の目に止まるようになりました。それで不意に訪ねてくる方々も格段に増えました。尾崎純先生もそうでしたし、今来られているAさんもそうですね。ですから将来的なことを考えますと、今以上の土地の利を見込んでおきたいところです。多少不便でも広ければ良い、としない方がよいと思います。

 私が赴任してからの取り組みをここで振り返っておきます。こちらへ来て間もなく、K姉の紹介を得て、西神ニュータウン9条の会に参加させていただきました。かつて吹田市の千里山にいたときも、千里山9条の会に私は参加していましたので、これは初めから考えていたことでした。そこでは、他教会の方々も多少おられましたけれども、多様な背景を持つ方々が集っておられます。その中から時折、西神教会の礼拝に来てくださる方も与えられて、今はIさんがよく来てくださっています。伝道のために参加している、というと誤解されるかもしれませんが、私はこうした地域のつながりを重視することが伝道に資すると考えて来ました。書斎にこもって地域を知らないで伝道するわけにはいかないとの思いでした。また9条の会は、教会の信仰が政治とは無関係ではおれない、という意識を維持していくための重要なチャンネルでもあります。本当はもっと皆さんにも参加して欲しいと心に思っています。私たちにはこの国の道行を選択するにも、聖書に基づく信仰の論理をもっていますから、平和について暗中模索をしているのとは違います。その点で、地域の9条の会を通して、私たちの教会はもっと積極的な貢献をすることができるのでは、とも思いました。

 それから幾つかの家庭集会を通して、地域の方々と交わりを持つことが出来ました。特にT姉のお招きで、月に一度開かれています家庭集会には、西神ルーテル教会の方々と日本基督教団美賀多台教会の方々が集っておられて、さながらニュータウン・キリスト者の会という様子になっています。これは純粋に御言葉中心の集会で、賛美歌を歌い、聖書の講話を聞いて、信仰の分かち合いをするという形式が守られています。もちろん、その後のお茶とお菓子が皆さん楽しみなところがあるのだと思いますが、その交わりが参加者の信仰生活の励ましになっているのを見て、よい交わりだと感謝しています。求道者の方は、今は2名ほどが連なっています。私が心がけているのは、それを私が横取りしようと思わないことです。その意味では伝道とは言っても一線を引いた間接的な取り組みですが、地域の教会がこうして互いに知り合うことは力になるのではないかと考えています。この2年間、クリスマス・キャロルを一緒にすることができていますが、これを続けて西神中央駅前の名物にでもなれたら、教会の認知度も上がるのではないかと思います。

 先ほども少し触れましたが、伝道は教会の公的な事業でもありますが、一番力になるのは知人や家族を礼拝に招く、個々人の努力が大きいと思います。未信者である御家族と一緒に礼拝に来られる兄弟姉妹がありますけれども、ご本人が一番そう思っておられることと思いますが、とても尊いことと思います。赴任当初から、家庭集会の勧めをしてきましたけれども、それは今でも変わらない思いです。T執事の義理のお母様は礼拝にも来てくださるようになりましたけれども、家庭集会にもいつも同席しておられます。是非ともその機会に福音に触れていただきたいと願って私も出席させていただいています。求道者の方々とお話ししていて牧師も無力だといつも思わされます。心からの求めが起こらないと聖書の話はまるで別世界の話でわけがわかりません。けれども、それが変わる時が来る、ということを私も経験しています。ですから、触れ続けることが大切だと思っています。もちろん、必ずしも牧師でなくても良いわけです。家族に福音を伝えたいと願った時に、一番近くにいる皆さん自身の証が、一番用いられるはずです。牧師の話なら聞くと言っていただけるなら喜んで駆けつけます。

 さて、最後になりましたが、牧師招聘のことに触れておきます。新しい牧師を招聘する、ということは教会にとっては一大事業です。私はこれを主の伝道の御業の一環として受け止めていただきたいと願っています。今お話ししてきました通り、西神教会には独自の賜物があって、伝道活動がここまで進められてきました。その賜物を生かして、より活発な伝道活動に携わってくれる牧師が期待されます。これまでは教会設立に集中して牧師の賜物が用いられました。今度はそこからの展開へと進む段階です。より多くの兄弟姉妹を教会に招いて、次への飛躍を願う時です。牧師招聘にあたって大切なことは、情熱をもって福音を正しく語ることのできる牧師を呼ぶことである、とはこの間メンチェンの本で学んだところですが、これは私たちも意識してきた基本だと思います。そうした牧師を招く責任は教会員一人一人が負うものです。

 招聘にあたっては、牧師の中には教会と牧師のプライベートは切り離すべきだとして、その関係を事務的に割り切る者もありますが、そういう人物は避けたほうが良いと思います。家族で喜んで主に支えている牧師がちゃんといます。牧師招聘は牧師を呼ぶのであって妻ではない、と言って、牧師夫人の負担を心配する意見がよくありますが、そういう必要がないほどに喜んで教会に奉仕をしてくれる牧師夫人が幾人もいます。牧師だけではなく、家庭も見て、一緒に教会を建て上げる喜びを分かち合ってくれそうだと分かれば、安心して新しいステップに踏み出せるように思います。きっとそういう働き手を主が選んでくださると信じて、次の招聘活動に向かうことができればと願っています。

お問い合わせ

電話・ファクス 078-992-6658

神戸市西区糀台2-20-7

牧師 弓矢健児 (ユミヤケンジ)

最寄駅

市営地下鉄西神中央駅から徒歩7分

※車でお越しの方は近隣の有料駐車場をご利用ください。