私たちの「共に生きる生活」ー奉仕と召命についてー

西神教会一日修養会 20151012日(月・休)於しあわせの村


はじめに

 私たち西神教会は西神ニュータウンで伝道を始めてから20年になります。それで20周年の記念行事として記念誌の編纂を今、松田長老を中心に進めています。20年前と言いますと、私が丁度神学生であった頃と重なりますので、幾分懐かしさを覚えながら資料に目を通したりもしています。私たちは一昨年の11月に教会設立を果たして、板宿教会から離れて独立した歩みを今日まで進めて来ました。殊更大きな問題もなく、新しい兄弟姉妹が加えられるなど幾つもの恵みを数えて今日に至っています。私たちはこの20年をここで振り返りながら、また次の10年という先を目指して教会の歩みを進めます。導かれたすべてに感謝をしながら、これからの賜物もまた祈り求めていきます。今回の修養会のテーマは、その賜物についてです。西神教会の未来については一昨年の一日修養会で自由に話し合いました。今回は私たち一人一人の召しについて考えたいと思います。私たち一人一人の召しは、西神教会の賜物として神から与えられます。キリストの恵みに生かされて、教会員一人一人が体の部分として尊ばれるのが教会です。西神教会の交わりにあって、誰もが必要とされてキリストに召されていることを今回は確かめたいと願っています。

 この発題のタイトルにある「共に生きる生活」とは、先日祈祷会で学びましたデートリッヒ・ボンヘッファーの本からいただきました。ボンヘッファーは1930年代のドイツでナチズムが台頭して来る危機的な状況の中で、キリストにある交わりの恵みについて、御言葉に導かれながら深く考察し、それを修道会のような共同体で実践しようとしました。それを全く同じように真似てみることは一般的な教会には難しいことと思いますが、その書物からは教会の交わりについて教えられることが多くありました。ボンヘッファーの本も思い起こしながら私たち西神教会の「共に生きる生活」について考えて、私たち一人一人がどのような召しを受けているかを改めて問うてみたいと思います。

1.初心に立ち返る

 まずは、初心に立ち返って、私たちそれぞれ西神教会に召されて歩み始めた時のことを思い返してみましょう。私は2011年に招聘されて西神伝道所で奉仕を始めました。新神戸駅近くのホテルで招聘委員会の皆さんと面会したときのことを昨日のように覚えています。教会設立の際にも招聘状をいただきましたので、私は二度皆さんに招聘されたことになります。就職式の際にはいずれも主の御前に誓約をして、神と教会に仕える今があり、喜んで奉仕させていただいています。

 皆さんにも同じような初めがあったことと思います。洗礼を受けた方、他所の教会から移って来られた方、それぞれに導かれた感謝と喜びをもって、この交わりに加わって来られました。礼拝式の誓約時には、「あなたは、最善をつくして、教会の礼拝を守り・その活動に奉仕し・教会を維持することを、約束しますか」と問われて、「神と教会の前に謹んで誓約します」と答えて今に至る教会生活があります。主の御前に自分がなした誓約に、実際どれほど忠実であったかと反省する時も多々あります。けれども、準備会の時にはいつもお話ししているように、「最善を尽くす」ことのできる根拠は、聖霊の恵みを信じる信仰にあります。やり通すことができるかどうか、と不安に思うよりも、力をつくし思いをつくして神と人に仕える歩みが、西神教会で始まったことの喜びに身を委ねることが大切だということ。その初めを私たちは忘れてしまうのですけれども、聖霊の恵みによって誓ったその時のことをいつも思い返していたいと思います。

 イエス・キリストが私たちを選んで、ご自身の体に結びつけてくださったのは、私たちがその体にあって、活き活きとした生活を営むために他なりません。その体が私たちの場合は西神教会でした。教会の交わりは、礼拝に来るだけの場所ではなくて、神がキリストにあって私たちを召しておられる場所です。たとえ日常生活がそれぞれ離れた場所で営まれていたとしても、私たちはキリストの体にあって一つに結ばれています。教会は救われた個人が自分の便宜に合わせて利用する機関ではなくて、キリストに救われた信仰者の生活母体です。ですから、教会に居場所がない兄弟姉妹というのは本来ありません。

 教会には一人一人に指定席があります。だいたい皆さん礼拝の時にはいつも同じ席に座っておられますけれども、そういう意味ではありません。神が用意してくださっている自分のための席が常に予約されて取って置かれているのが礼拝であり、教会の交わりです。そこに座るかどうかは私たち次第のところもありますけれども、そうした特権をいただいているのが教会員であることの意味です。

2.教会の交わりは賜物

 教会生活について考えるに当たって、いつも念頭に置きたいのは神中心の教会生活です。自分と神との一対一の関係だけで信仰生活を送ることの危険は、結局は自分中心の信仰になってしまうことです。ですから、自分の信仰が萎えてくると信仰そのものが危うくなってしまいます。私たちが信じる救いは、神が全くの恵みとして私たちを救ってくださる、という福音です。私たちの側には救われる理由はまるでない。評価すべきことがあって救われるのではなく、むしろ罪人として救いがたい人間であるにも関わらず、神が憐れんでくださって私をキリストに結んでくださった。聖書の福音を聞いてそれを受け入れて信じることができたのも聖霊の恵みによるものだ、と信じます。そこで神のお働きを聖書から学べば、そこにキリストの体である教会を地上に建て上げ、神の国の完成に向かって行かれる救いのご計画が分かります。その中に生かされてある今が私たちの教会生活となります。私の意思で教会生活があるのではなくて、神の御旨が先立って教会生活が成り立っているわけです。私たちが最善をつくして礼拝に出席し、そこで奉仕をささげるのは、神がそこへと私たちを召しておられるからです。

 ボンヘッファーは『共に生きる生活』の中で、キリスト者同士が交わりを与えられていることは決して当たり前のことではない、と言います。イエス・キリストがただお一人で十字架に至る苦難を受けられたように、キリスト者もまたこの世にあって敵の只中で生活することを余儀なくされます。キリスト者の群は、神の意志によって地上に蒔かれた種のような離散の民である。神の民は遠い国々で、神を信じない者たちの間で生活しなければならない。それが本当に一つとされるのは約束された世の終わりですけれども、それが先取りされるような形で目に見えて実現しているのが教会の交わりである。ひとりでいなければならないようなキリスト者もあることを思えば、他のキリスト者が体をもって目の前にいるということは、信仰者にとってこの上ない喜びであり、励ましである、と言います。そして、こう勧めをしています。

 もちろん、孤独の中に生きる人にとっては口に言い表せないほどの神の恵みであっても、それが毎日与えられている人にとっては、とかく軽んじられ、なおざりにされがちである。キリスト者の交わりはいつ取り去られるかも分からない神の国の恵みの賜物であり、ただしばらくの間だけ与えられて、ふたたび深い孤独によって切り離されてしまうかもしれないということが、容易に忘れられてしまう。だから、その時までほかのキリスト者と信仰者どうしの交わりの生活を許された者は、心の底から神の恵みをほめたたえ、ひざまずいて神に感謝をささげ、私たちが今日なおキリスト者の兄弟姉妹との交わりの生活を許されているのは恵みであり、恵み以外の何ものでもないことを知りなさい。(15頁)

教会もまた人間の集まりにすぎず、人間関係が疎ましく思えるような躓きもあるのが現実です。しかし、たとえそうであっても神がご覧になっている霊的な現実というものがあって、互いに欠けや傷をもった交わりであっても、キリストに結ばれてそこにおらせていただけるのが教会の恵みです。

 ボンヘッファーは同じ書物の中で「仕えること」というテーマに一章を割いています。そこで語られていることは、罪を赦されて一つにされた恵みの中で、どのように仕え合うかということです。互いに仕え合う間にキリストの愛と平和が実ります。教会の現実は、互いに仕え合うのとは反対に、互いに競い合う様相を呈している可能性もあります。イエスの弟子たちが互いに誰が一番偉いかと言い争ったようなことが、裏に表に現れてきます。強い人と弱い人との間で自己義認を巡る争いが始まるのが教会である、とボンヘッファーは言います。そこで彼が提案するのは、「言葉を慎む」「へりくだる」「話を聞く」「活動的に援助する」「重荷を負う」「御言葉を伝える」という教会の隣人たる兄弟姉妹に対して行う奉仕です。教会でどのような仕事を受け持つか、という具体的な話ではありませんが、その前提となるような人間関係のあり方が丁寧に説かれています。今日はそれを辿ることはしませんが、皆さんにも読んでいただきたい文章です。そこでボンヘッファーが伝えようとしていることは、人間的な現実を超えて、キリストに結ばれた兄弟姉妹としての霊的現実を教会の交わりの中で実際に経験することです。罪を赦していただいて神に救われてあるからこそ与えられる、信仰を共にする兄弟姉妹がある。その兄弟姉妹に対してキリストの愛をもって仕える道が、決して陶酔的にではなく、互いの現実を受け入れあう交わりの中にある。

3.わたしにできる一つの奉仕

 さて、今回の修養会の目的は教会の活動を通して行われる主の御業に、私たち一人一人がどのように用いられるかを共に考え、献身の思いを新たにすることです。最近、主の日の礼拝の中で聞いた御言葉に、『ヨハネによる福音書』12章にある「ナルドの香油」の話がありました。ベタニヤで開かれた晩餐の席で、マルタの妹マリアが非常に高価で純粋なナルドの香油をイエスの足に注ぎ、それを髪で拭ったという出来事です。十字架に向かわれる主イエスに対する最高度の愛に満ちた奉仕がなされました。それと合わせて思い起こしたいのは、最後の晩餐の席で主イエスが弟子たちの足を一人ずつ丁寧に洗ったという洗足の出来事です。マリアのささげものは、この主イエスのへりくだった奉仕に対する応答の先取りでした。まずは主ご自身が身を低くして私たちに支えてくださって、苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られます。それによって私たちは今ある救いの恵みに生かされています。私たちも主イエスのお姿に倣って、「あなたがたも互いに仕え合いなさい」とのお言葉通りに、教会の交わりにあって奉仕をささげます。

 私にできることは何だろうか、と考え込んでしまう方もあるかと思います。けれども、マリアがナルドの香油をささげたのが彼女独自の決心であったように、それが周りにどのように受け止められようとも、心からの献身のしるしであることが主に喜んでいただけます。教会で求められる奉仕は、出来ないことを要求されるようなことではありません。

 教会の交わりにあっての第一の奉仕は、その交わりにいることです。ボンヘッファーが挙げている奉仕の仕方はそのことをよく語っています。言葉を慎むこと、謙遜であること、聞くことなど、どれも目の前に相手があってのことです。私たちはまず神に仕えるために礼拝を行うのですが、そこに自分もいるということが交わりに対する奉仕にもなります。誰もがこの恵みを十分にいただいているとは言えません。健康の状態や住んでいる場所によって礼拝に来ることができない兄弟姉妹もあります。ですから、礼拝に来ることができること自体がその人に与えられている大きな恵みです。その恵みを受けて礼拝の中に置かれ、神に仕えることで第一の奉仕がなされます。

 遠くにいて何も奉仕ができない、と思われる兄弟姉妹であっても、献金によって奉仕をすることができます。遠方に引っ越して他住会員になりながらも、毎月維持献金を送って教会を支えている兄弟姉妹があります。「最善を尽くして教会を維持する」と誓った言葉がそうして守られているわけです。

 ついでに献金のことも一言お話ししておきます。いつも献金感謝の祈りで唱えられていますように、献金は私たちの献身のしるしであり、神と教会への奉仕です。そこからいつも考えて献金をささげることが大切です。今のところ私たちの内にはホームレスの方はありませんから、食うや食わずの生活をしている方はいないと思います。しかし、時々、献金の集計に一円や十円が数えられます。額が少ないと責めるつもりはないのですが、どのような思いで一円玉を献金袋に入れるのかはよく考えていただきたいところです。私は昭和育ちの人間ですが、生まれてこの方、一円玉のお小遣いをもらったことはありません。十円玉はありましたけれども。一回の礼拝でどれだけささげるかは前もって準備しておけばよいことですが、せめて自分の感謝と献身の気持ちを表すのにふさわしい金額は幾らかと考えてささげたいところです。週報にはいつも献金額の集計が記載されていますね。全体としてみますと私たちの教会は決して少なくない額の献金をささげています。そこに毎回の礼拝を通して表される私たちの献身のしるしがあることに注意するよう心がけたいと思います。

 主の日の礼拝に忠実に出席している兄弟姉妹方は、それによって大切な奉仕をすでに果たしています。高齢の兄弟姉妹方が礼拝におられることは、教会の交わりの恵みですし、それが証となって皆を励ましています。教会役員にもおよそ定年があるように、教会の奉仕活動はいつまでも何かしなければならないと追い立てられるようなことではないはずです。

 交わりにいることが第一の奉仕である、と言いましたけれども、別の角度からしますと、そこには時間のささげものがあります。教会のために、つまりキリストのために、兄弟姉妹のために、自分の時間をどれだけ割くことができるか、という点が、自分の奉仕について考えるポイントではないかと思います。それぞれに置かれている環境が異なりますから、皆が同じ分だけ自由な時間をもってはいません。けれども、そこは献金と同じで、皆が同じ収入を得ているのではないわけで、そこで自分なりのささげものをどのように分けて取るか、ということになります。日曜日の丸一日を、主のために聖別して取っておく、というのが安息日の原則ですね。そのように一日を聖別しますと、その中にまた様々な奉仕が含まれることになります。そして、その他、祈祷会のために時間をとっておくとか、週日の集会や会堂清掃をするために時間を割くとか、私たちそれぞれの日常生活を整理して、奉仕のために費やす時間をとっておくことが積極的に奉仕をする心構えとなります。

 会社のために、仕事のためにすべての時間をささげてきた、という男性中心社会の人生観が今問われていますけれども、もっと家族や子どもたちのために時間を割くべきだと多くの人が考えているところだと思います。私たちはそのところも信仰によって整えられます。主の日の礼拝を中心にした生活のリズムがあり、いかなる仕事も神の栄光を表すため、という目的をもっています。時間を整理する、というのは家計を賢く遣り繰りするのと同じスチュワードシップによるものでして、私たちはキリストにあって、神から時間も収入もすべてのものをいただいて、それを管理するようにされています。そこで「忙しいから」という理由で、神の御前に出られない、ということがどういうことを意味するのか考えさせられます。同じように、「忙しいから」奉仕ができない、と嘆くときに、一体何に忙しいのかをよく考えてみることは必要です。役員であれば教会の奉仕があれこれ色々あって忙しい、ということになるかと思いますが。

 そこで皆が主の日に礼拝をささげ、時間とお金のささげものをする中で、教会の交わりは実際に保たれています。そこでさらに自分に何ができるかと考えるのですけれども、まずは教会の必要を知ることが前提になります。『年報』を見れば一覧できますけれども、教会全体の活動に関心がなければ奉仕も始まりません。『週報』や『月報』に毎回目を通すことも大切です。そこでなされている報告は祈りの課題にもなります。祈りながら何ができるかと注意している時に、自分の役割もまた見出されていくのではないでしょうか。

4.長老・執事への召命

 西神教会は教会設立を果たして2年目ですから、まだまだ教会としての歩みを始めたばかりです。西神教会が独立教会としてこれからも立ち続けるためには、今いる教会員が一致して教会を支えてゆかねばなりません。一人一人がキリストの召しを確かにして、持っている賜物をささげてゆかねば立って行けません。無理をして教会設立を果たしたとは思っていませんが、長老2名、執事3名は、小会・執事会がぎりぎり成り立つところの数です。ですから、ここから長老と執事が新たに立てられてゆくことが今後も私たちの課題になりますから、真剣に祈り求めてゆかねばなりません。

 近年では歴史のある教会が伝道所に種別変更を余儀なくされるような状況が生じています。壮年の会員がなかなか増えません。伝道の難しさは私たちもやはり感じています。けれども、教会が維持できなくなってしまう事態は、伝道の問題ばかりではなくて、教会員の信仰の問題にもなるのではないかと思うことがあります。私たちの教会ばかりでなく、日本のキリスト教会全体を考えてのことです。やはり、仕事に時間を奪われてしまうわけです。私たちの生活パターンを決定しているのは、経済中心に回っている社会構造でして、先に述べましたように自分の時間を自分で掌握しておくことが困難です。

 しかし、その流れに任せてしまえば、教会は立ち行かなくなります。これは、やはり私たちが自分のこととして教会のことを真剣に考えなくてはならないわけです。このまま仕事を続けていれば家族が崩壊してしまう、という危機を感じて、家族のために仕事のあり方を考える、というのと同じです。

 そこで、これから具体的に、自分の長老や執事になることを祈りながら考えていただきたいと思います。年齢の制限も一応ありますから、今日ここに出席しておられる皆が客観的にそれらの職務に召されるわけではありませんけれども、やはり今この時に西神教会に導かれた主の御旨を思って、自分にもその召しが与えられることに備えていただきたいと思います。

 長老・執事の職務については、教会設立に際して一緒に学ぶ機会があったと思います。それらについての理解も重要ですが、感謝して、喜んでその務めに励もうという志も大切です。長老職には治会の責務があり、執事職には種々の働きによって交わりに配慮する責任がありますから、当然賜物は問われます。けれども、多くの場合に、それは職務を通じてさらに豊かに増し加えられます。

 身内のことでいつも申し訳ないのですけれども、私の母教会がまだ設立して間もない頃、父は若くして長老になり、その父と結婚した母は執事になりました。夫婦で役職に就くのは本当は避けたほうが良いのですけれども、小さな教会にあってはそれも致し方ありません。その頃は長老の奥さんたちが皆執事になるような傾向もあったのですが、若い女性執事さんたちは皆必死だったのだと思います。子育ても大変ですし、教会で指導力を発揮するような人でもないわけです。おそらく母が執事らしく教会の仕事をすることができるようになったのは、引退間近の頃であったのではないかと思います。勉強は苦手だったと思いますが、教会員のもとをよく訪問したり、心を病んだ方や高齢の方々の話をよく聞くようになりました。もし、執事になっていなかったら、母はどれだけ信仰者として成長できただろうかと考えます。信仰者として成長する、というより、執事に召されて祝福されたんだと思います。4人の子どもを育てる上で苦労も多かったはずです。教会に通うのにも電車とバスを乗り継いで一時間かかります。もし執事に召されていなかったら、我が家はもっと悲惨な目に遭っていたかも知れない。信仰もバラバラ、家族もバラバラ、教会に恨みを抱いてつまずく子どもたちも生じたかも知れません。けれども、力はなくとも直向きに仕えたことで、母は生涯の終わりまでキリストの側にいることができ、誰かに必要とされる姉妹になれたのだと思います。父も同じだと思います。いまだ健在ですから、父のことは話しません。

 今回の修養会を準備するにあたって、長老・執事の皆さんに証をしてくださいとお願いしましたら、皆さん一様に断られまして残念でした。ですが、それぞれ皆さん、長老・執事として働いておられる中で証をもっておられます。板宿教会のような大きな教会ですと、そういう長老・執事の姿が見られて当たり前のように歴史が重ねられていますから、言わずとも見える証があって、それを見ながら教会員が成長します。けれども、私たちのように伝道所から始まった若い教会にはまだそれがありません。それは致し方ないことで、それはこれから私たちが作っていくわけです。皆さんが西神教会にささげていかれる奉仕が、後の世代のための証になります。

 昔、榊原康夫先生が神学校でお話しされた時に、私たち神学生に向かって、引退した先生方の話を聴きに行け、と言われました。私には何よりもそれが不得意だったのですが、その大切さはわかります。不思議な導きで出会った先生方もありましたが、そこで聞いた話は本を読む以上に益となりました。皆さんはいかがでしょうか。「証」というのは、あるグループで一般化されているように、何か特殊な経験を話すことでも信仰をひけらかすことでもありません。自分の信仰を通して得た経験を、兄弟姉妹に伝えることです。そうして語り伝えられた経験が知恵となり、教会の豊かな伝統を作り上げます。私たちはまだ若枝です。鳥が宿るほどの大樹になるには時間がかかりますけれども、キリストに結ばれた生命の木として成長させていただけるように、もてるものを喜んでささげて、将来の望みをもった教会でありたいと願います。

   

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牧師 弓矢健児 (ユミヤケンジ)

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