2014年西神教会一日修養会講演

「終末の希望に生きるー創立60周年記念宣言に学ぶー」牧野信成

 

◆ 説教「終末の希望キリスト」ルカによる福音書16章19ー31節

 

『宣言』に学ぶ終末の教え

 明日の一日修養会では、「終末の希望に生きる」とのテーマで終末に関する聖書の教えを学びたいと計画しています。終末の教えには、やがてキリストが来られてこの世界に終わりがもたらされる、という世界的な終末に関するものと、私たちが死んだらどうなるのか、という個人的な終末に関するものとが含まれます。どちらも重大な問題ですけれども、今回はどちらかと言えば後者の方に関心があります。私たちの人生に定められた終わりを見つめて、確かな心でこの生涯を送りたい、という願いでそこから学びたいと願っています。

 それを聖書から学ぶわけですから、聖書そのものを直接取り上げてもよろしいのですけれども、一つ一つの箇所にこれまでなされてきた教会の議論があり、解釈の違いも生じています。それを一つ一つ取り上げて説明することにしますと、1冊の本にしても足りないくらいですので、聖書の教えをまとめたところのウェストミンスター信条を規準としてお話しします。また、さらに18世紀にまとめられた信条を現代に相応しく読むために、私たち改革派教会はこれまで10年毎に『宣言』を出して来ました。創立30周年には「教会と国家に関する宣言」を出しまして、『ウェストミンスター信仰告白』にある同じ主題の項目を日本の文脈で説き明かしつつ、新たな説明を加えることができました。それと同じように、後に続く10年毎に、『聖書について』『聖霊について』『神の選びについて』『伝道について』『終末について』の宣言を作成して来ました。そこで今回は、創立60周年記念として出されました『終末の希望についての宣言』をテキストにして、ウェストミンスター信条にまとめられた終末についての聖書の教えを共に学びたいと思います。

 『宣言』の内容は簡潔に記されていますが、非常に豊かな内容ですので、明日の講演時間にはとても収まりそうにありません。そこで、今は講解説教の合間ですから、明日の講演へと続く内容をここで学んでおくことにします。

正しく学ぶ必要性

 終末の教えを聖書から学んでおくことの目的は、一つには誤った教えに惑わされないためです。巷では「終末」という言葉に何ら明るい響きはないのではないかと思います。むしろ、おどろおどろしい、いかがわしさを感じさせます。実際、世間を騒がせるようなことをしてきた宗教団体は必ずといっていほど「終末」を口にします。ですから、「終末」の教えは誤ると危ないのです。

 しかし、そうではあれ、私たちが神の言葉と信じる聖書は、確かに「終末」を語っています。ですから、これを避けて通ることも信仰の道では誠実な態度ではないと思います。宗教改革者たちは、やはり当時の終末論の混乱を避けたためか、終末の教えには深入りしなかったようですが、今日に至る歴史を通じて穏当な理解も与えられて来ましたので、私たちは敢えて避ける必要はないと思います。ただ、そこで初めにお話ししておきますと、カルト的な興味を持てばいろいろと尋ねたい終末の教えには、私たちが知りたいと思うすべてが明らかにされてはいない、ということです。それを分かったようなふりをして、人を惑わすのが巷に出て来る新しい宗教の危ういところです。『宣言』の中でもこれは特に注意が向けられていまして、次のような一文が挿入されています。

 わたしたちは、死後の状態について聖書が啓示していない事柄に関し、聖書の外で憶測に基づく判断をせず、終わりの日に明らかにされることを謙遜に待ちます。

 『ルカによる福音書』16章19節以下に、主がお話しになった「金持ちとラザロ」のたとえがあります。贅沢に暮らしていた金持ちは死んで地獄に生き、他方、その金持ちの家で乞食をしていたラザロは天国の宴席に迎えられた。金持ちが天を見上げるとそこに幸せなラザロが見えたので、金持ちは神に憐れみを訴えますが、もう手遅れだと言われてしまいます。そこで今度は、地上でまだ生きている兄弟たちにこんな目に遭わないように警告したい、というのですけれども、聖書に書いていることを信じない者には、何を言っても聞いてもらえはしない、と言われます。この例えが語っているのは、死後の報いについては、聖書に書かれていること以上に人間に知らされることは無い、ということでして、私たちがいろいろと詮索しても得るところはありません。

 そういうことですから、尚更、私たちは聖書に明かされていることは何かを整理して学んでおきたいところです。

神の計画とキリスト

 聖書にある終末の教えを理解する鍵は、「神の国」です。私たちはつい先頃まで『エフェソの信徒への手紙』から学んでいましたけれども、そこで使徒は「神の秘密」について語っていました。それは、キリストが世に来られたことによって明らかになった、神の救いのご計画です。もう一度、そこを振り返ってみたいと思います。エフェソ書の1章3節からお読みします。

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

ここには、神がイエス・キリストについて立てられた永遠のご計画が示されています。それによれば、人がキリストを信じて救われる、という出来事は、神が天地創造の前から計画されていたことであって、信じた者たちは昔から神に愛され、神の子とされるように定められていて、そして、聖霊によって御国を受け継ぐ保証を受けている。「時が満ちるに及んで」つまり終わりの時には、神の救いのご計画が完全に実行されて、「天にあるものも血にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」。こうして、キリストが主となられる神の国が完成されるとのことです。3章を見ますと、そのような神の救いのご計画の中にパウロの伝道への献身があって、現に実行されていると証しされています。

 「終末」というのは、ここに言われている神の救いのご計画の目標をさすのでして、それは神の国が完成される時を表わします。「神の国」とイエス・キリストと離れた終末はない、ということです。『ヨハネの黙示録』には、その救いが完成された終わりの幻が、次のように美しく示されています。22章1節以下です。

 1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。3 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

約束された終末

 パウロが述べた神の秘密―イエス・キリストに現れた神の救いのご計画は、なにか降って湧いたようにパウロの心に閃いたことではなくて、旧約聖書からキリストに至る御言葉に導かれての発言だと理解出来ます。旧約聖書は神の約束に導かれた歴史だと言えますが、そこに既に救いのご計画はある程度示されています。『宣言』の文に従って、それを次のようにまとめることができようと思います。

 神は御子イエスを万物の相続者へと前もって定め、御子によって世界を極めて良く創造されました。これは新約のコロサイ書の御言葉によります。神はまた、御自分のかたちに人を創造し、人と命の契約を結ばれました。エデンの園での出来事です。それは、人が神を知って崇め、神との交わりとしての永遠の命を喜びにあずかり、地を治めて神の国の終末的完成に奉仕し、神の栄光を現すためでした。つまり、創造の初めに終末の完成はもう見越されています。創世記の初めにある創造の記述をよく読みますと、そこに終末の完成像が見えて来ます。何のために人間は造られたのか。それは、神の喜びとして、神の栄光を現すためです。それは同時に終末の完成時に、私たちに約束されていることです。

 この創造と終末をつなぐ間に、人間の歴史が展開します。その始まりに、人間の堕落がありました。最初の人アダムは神との契約に違反して、アダムとともにすべての人間は堕落しました。そして、命の源である神との交わりを失いました。そのため、この世では罪故の悲惨に見舞われ、死んで永遠の裁きを受ける定めとなりました。人間ばかりではなく、神に造られたこの世界全体が、滅び行く空しさにとらわれてしまいました。

 しかし、神は憐れみ深いお方ですから、人間と世界を滅びるままにはしておかず、恵みの契約を通して御自分の民に様々な方法で救いの道を示されました。ノアを通して、アブラハムを通して、モーセやダビデを通して、神はイスラエルの民と契約を結んで、ご自身の祝福を与え続けました。特に、イスラエルが神に背いて偶像崇拝に走った時代には、預言者たちを通じて神の裁きをお告げになり、やがて決定的な審判の日が到来して、神ご自身による支配が実現するとの約束が与えられました。『イザヤ書』の2章に置かれた終わりの日の預言は、聖書に示される世界平和の希望としてよく知られています。

 2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

来るべき日には、新しい契約が民に備えられ、聖霊が豊かに注がれて、神の救いの祝福が全世界に及ぶようになる。そして最後には、新しい天と新しい地がもたらされて、神の国、すなわち、真の神の御支配が完成する。これが、預言者たちが民に書き残した、神の約束、救いのご計画でした。旧約の民の信仰は、この約束を希望として、真の救い主が世に来られることを待ち望みました。

実現した終末

 今、祈祷会で旧約聖書の学びを進めていますが、おそらく今年中には終わることと思います。一緒に学んでいて思いますことは、旧約聖書には様々な種類の書物が含まれていますけれども、それがどれもイエス・キリストを目指して語られているということです。旧約聖書によく親しむようになりますと、新約聖書で主イエスや使徒たちが何を語っているのかが、より鮮明に分かるようになります。イエス・キリストが世に来られたのは、旧約聖書で語られた数々の御言葉の成就としてです。「神の国は近づいた。悔い改めて信じなさい」と世に出られた主イエスは世界に語りかけました。イエス・キリストと共に神の国が来た。つまり、終末が来た、ということです。「終末」とは神のご計画の最終段階ですけれども、その「終末」はすでにキリストと共に世に来ています。私たちは、ですから、終末を今も生きているわけです。

 イエス・キリストは、罪を犯した最初のアダムの失敗を繕うように、罪の支配のもとにある私たちの代表として神の御心に完全に服従されました。そして、御自分のではなく私たちの罪を背負って、十字架にかかって神の怒りと裁きを身に受けられ、死んで葬られ、三日目に死人の中から甦りました。そうしてイエス・キリストは第二のアダムとなられて、神と私たちとの間に新しい契約を結んでくださいました。イエス・キリストの復活に示された、罪と死の力に対する勝利、永遠の命と新しい創造によるからだの復活は、その契約の恵みとして信じるすべてのものに保証されています。

 キリストはその復活の体をもって天に昇られまして、天で神の右にある権威の座に座られて、天と地、この世と来るべき世における一切の権能を与えられました。天におられるキリストは、天に宝を蓄えておられ、聖霊を世界のあらゆる人々に注がれて、新しい民を御許に集めておられます。そして、主は御自分の支配によって、聖霊と御言葉による信仰の戦いを教会になさせ、御自分の民のために常に執り成し、行く道を守っていてくださいます。

 これが、パウロが語っているところの、神の秘密―神の御旨の内にある救いのご計画の道筋です。聖書が伝えるこの内容は、私たちが礼拝で唱える『使徒信条』の告白に盛り込まれているものと共通しています。

完成としての終末

 神の国はイエス・キリストによって世にもたらされました。それはキリストを信じる信仰によって結ばれた神の民の内につくられる恵みの王国です。目に見える教会やキリスト教国家は、それがそのまま神の国であるわけではありません。人間の罪深さは、旧約のイスラエルの民のように時に信仰を偽り、本来のキリストの御支配を見えなくさせます。しかし、キリストが来られてから聖霊は確かに信じる人々の内に働いていて、神の国は教会の内に形を取って現れます。まだ、未完成なのですけれども、終わりの完成を目指して、キリストの御支配は世界のあらゆるところへと広がって行きます。この終わりの最後の段階では、キリストが再び世に来られます。恵みの王国が、栄光の王国として完成されます。すべての呪いが取り去られて、神の祝福が満ちた世界の完成です。その終わりに希望をもって、私たちは「主よ来たりませ」と祈ります。

 信仰に生きるキリスト者にとって終末は暗くないのです。たぶん、多くの人は世界の終わりや自分の生涯の終わりについて考えないことにしているのではないでしょうか。今の時代の悪さはそこに起因しているようにも思えます。この時代の大きな流れにあっては、神がお造りになったこの世界を、自然を、人間を、大事にしようと言う意志が感じられません。そのような虚無に囚われた世界が、やがて神の裁きによって滅びることは必定です。しかし、キリストには人が生きる希望が示されています。神はそういう虚無に陥った人生に、キリストの希望を与えてくれました。神の御旨に適わない悪い世界は滅びます。しかし、赦しを得て生きる希望を与えられた人々には、神のご計画が完了した時の輝かしい命が待っています。どちらを選ぶかは自分自身です。しかし、キリスト者であるならば、キリストに示された「終わり」をしっかりと見つめて、ひとり一人に与えられる栄冠に向けて今の歩みがあることを、心に確かに受けとめたいと思います。

祈り

天の父なる御神、聖書に示されましたあなたの深い御旨のご計画に心から賛美と感謝をささげます。私たちはその御旨を信じないで、キリストの御支配に甘んじることをせず、自分勝手に心揺らぐものでありますけれども、どうか、聖霊によってあなたのお定めになった終わりの栄光を信じて、今ある恵みの中で、主イエスと共に歩ませてください。時代の悪さを思い、自分の不甲斐なさを思う時にも、あなたご自身が主イエスの御国を進めておられることに信頼して、主が来られる時に期待しながら、今なすべきことをなさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

◆ 説教「終末の希望に生きる」マタイによる福音書24章3ー14節

神の永遠のご計画

 13日に予定されていました一日修養会は、残念ながら台風のためにお流れになってしまいました。そこでご一緒に学びたかった内容は、終末に関する聖書の教えです。「終末」とは「エンド」でして、そこには「終わり」という意味と「目的」という意味があります。聖書の教える終末は、私たちが生きる目標について、また、世界が進むべき方向について、神がどのような計画をもっておられるかを示しています。

 終末に関する聖書の教えは、宗教改革諸信条に基づいて、「日本キリスト改革派教会創立60周年記念宣言」にまとめられています。本来ならば、その「宣言」の文章そのものを皆さんに味わっていただきたいのですが、それは各々御自分で読んでいただくことにしまして、ここではその内容についてさらに要約してお話しします。

 主イエスが世に来られました時、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけました。そこで言われた「神の国」または「天国」とは、私たちが考えるような「日本」「アメリカ」「中国」などのような国とは違っていまして、神がご自身のもとに罪人を集めまして、親が子どもを本当の愛情と献身をもって守るような、神と人の交わりを指しています。「国」とは聖書の言葉では「支配」を表わします。キリストを信じて救われる人が大勢いるのですから「国」でもいいのですけれども、神のご支配は力によるものではなく、神の愛が聖霊を通して信じる者たちに及ぶときの霊による支配です。

 神が御子キリストをこの世に送って、十字架と復活による救いの御業を果たさせたのは、その「神の国」をつくるためです。それは天の神が突然思いついたことではなくて、天地をつくる前から、永遠の昔からみ旨の内にあった御計画でした。使徒パウロが手紙を書き送ったのも、イエス・キリストを通して知った神の永遠のご計画を、諸教会に知らせるためでした。

 聖書で明かされている神のご計画について簡単に述べますと、それは天地をつくるその作業から始まります。創世記の初めに書かれていますように、神は命に満ちた美しい世界を創造されました。神はそれをご覧になって「極めて良かった」と言われました。そこに神のご計画の目的がよく現れています。神はこの世界とその中にあるすべてのものを良いものとしてつくり、これを祝福するためにこそ創造されました。そこから終末の意味も分かります。神は、天地創造に表わされたその「良き創造」という目的を、終末において完成されます。終末とは創造の完成です。

 神が御子キリストを世に送られたのは、その目的を果たすためです。「神の国が来た」とは、いよいよその終末の完成が近づいた、ということです。神は永遠の昔から、御子キリストによってそれを完成なさることをご計画しておられたのでした。

 ここまでが前回ご一緒に学んだところです。「宣言」の第一節に記された部分です。今日は、それに続く第二節の内容に進みます。

主の再臨を待ち望む

 神が創造なさった世界が、キリストによって完成して終末に至る、その合間の時間に、堕落した世界の、罪ある人間の歴史があります。その時間をどのように生きるのかが私たち人間のテーマです。そして、その始まりと終わりの間を生きるために、キリストは私たちに信仰を与え、教会という交わりの中で、希望をもって生きることができるようにしてくださっています。「終末の希望に生きる」とはそういうことです。終わりに完成されるキリストの救いを待ち望みながら生きる、ということです。

 主イエスは御自分が天に昇られた後、再び来ることを約束されました。そこで教会はその約束を固く信じてキリストの再臨を待ち続けています。それから2000年の時が流れていますが、神のもとでは「千年が一日のよう」だと言われますから、私たちの勘定で長い・短いと計ることはできません。キリストが再び来られる時、私たちが生きているこの神の物語は完了して、最後の審判がなされ、新天新地が到来して、神の祝福がキリストのもとで完全に現れます。それまで待つようにと言われましたので、主イエスの御言葉通りに待ち続けるのが教会の基本的な信仰の姿勢です。

 「わたしたちは、大いなる期待と喜びをもって主の再臨を待ち望みます」。「宣言」はそう述べています。生きることの辛さを覚える度に、私たちの期待も高まるのだと思います。どんな痛みや苦しみに出会おうとも、それは終末に至る通過点に過ぎません。たとえ死が身近に感じられたとしても、その向こうには天の住まいがあります。

 主イエスは、再臨の時にはしるしが伴うと言われました。マタイ福音書の24章には戦争や災害や迫害のことが記されています。私たちの生きる時代は、そのようなしるしに囲まれていると言ってよいのではないかと思います。そういう時代にあって「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われています。主イエスが再び来られるとの希望に支えられて、忍耐して終わりの救いに至るように呼びかけられています。

 また、たとえしるしが多く現れても、慌ててはならないと命じられています。時々、何月何日にキリストが来る、と日付を語る人々が現れます。西暦2000年を迎えましたとき私はエルサレムにいましたが、その年が変わる瞬間にキリストが天から到来してハルマゲドンになる、と信じるフランス人のグループがメギドに集結するという事件がありました。聖書よりもノストラダムスを信じたのでしょうか。キリストはそういう人々の言葉に惑わされないよう、弟子たちに予め警告しておられます。いつ、キリストが再臨なさるのかは知らされていません。たといそうであっても、わたしたちは落ち着いた生活をして、目を覚まして、祈っているように命じられています。集会を怠らず、神の民としての務めを果たしながら、身を慎んでいるようにと使徒たちも重ねて教会に呼びかけました。

希望の共同体である教会

 キリストの再臨を待ちつづける場所は、メギドの山ではなくて教会です。主はご自身の民のところに来られるのですから、私たちの側で探し回る必要はありません。ただ、教会を抜きにして再臨も終末もありません。キリストは御自分の民のために来られるのですから、私たちは主イエス・キリストと結ばれて、共に礼拝をささげながら主イエスの来られるのを待ち臨みます。

 今日は私たちの出発点に当たる宗教改革を記念しての礼拝をささげていますが、その頃はルターを始める改革者たちが激しく教会の腐敗ぶりを批判しましたので、教会そのものが否定されてしまったような印象も受けます。しかし、それは教会を教会として成り立たせている権威の所在を神の言葉である聖書のうちに取り戻し、罪人の魂を救う主の働きを教会に取り戻すための批判です。ですから、改革者たちの働きの後には、確かに制度をもたない極端な群れも現れましたけれども、ルターの後にはルター派の教会が、ツヴィングリやカルヴァンの後には改革派教会が、それぞれの制度をもって歩みを始めています。

 イエス・キリストを信じて集う神の民が、力を合わせて教会を建て上げ、キリストへの信仰を固く守っているところに、花婿たるキリストが再び来られます。聖書では、教会がキリストの花嫁と呼ばれ、互いに有機的に結ばれたキリストの体ともいわれます。また、聖餐式の度に思い起こすように、教会はキリストに結ばれた新しい契約の民であり、聖霊が住まわれる宮です。そうして私たちはキリストとの緊密な関係に結ばれて、キリストを頭とする教会として、創造から終末に至る狭間の時を歩みます。地上の教会は罪を免れ得ませんけれども、忍耐しながらキリストが果たしてくださる終末の完成へ向かっていきます。

終末を味わう礼拝

 地上を歩む教会のために、キリストは御言葉と礼典と祈りを与えてくださいました。それによって、私たちを終わりまで守ってくださいます。私たちが主の日ごとにささげる礼拝には、すでに終末の光が差し込んでいます。初めは、聖書を学ぶためだけに、あるいは讃美歌を歌って晴れやかな思いになるために、集うだけかも知れません。しかし、主の日の礼拝が生活の中心にしっかりと位置付けられるようになりますと、私たちはそこで終わりの完成の幻を見るようになるのではないかと思います。神秘体験ではなくて、キリストの約束が真実であることが、身にしみて分かるようになるということです。それを信じることによって深い慰めと生きる力が与えられます。

 毎週礼拝に出席しましょう、と私どもの教会は繰り返し呼びかけています。それをしんどいと思う方もきっとおられると思います。けれども、それは数字の上で教勢を伸ばすためでも、形ばかり教会を大きくするためでもなくて、本来そうあるべき信仰の姿勢が整うことで、一人一人がそれによってより豊かに恵みに生きるようになることが分かっているからです。『マタイ福音書』の22章に婚宴のたとえがありますけれども、王の婚宴に招かれてもそれぞれ自分の都合を言い訳にして応じなかった人々は最後に滅ぼされてしまいました。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と、そこでイエスは仰いました。礼拝に出席する、ということは、いわば世の終わりを迎えるための予行演習です。その時になって、「いや、都合があるから」と言っていますと、救いの恵みか漏れてしまいます。私たちはこの世にあって、自分の将来についてはどれほど確かか分かりません。ただ、イエス・キリストの招きにまっすぐ応えている時だけ、私たちはキリストの真実に確証を得て、安んじて終わりを待つことができます。

 先週の金曜日に、板宿教会で西村とくゑさんの葬儀がありました。板宿教会の西村長老のお母様で、96歳で天に召されました。司式をなさった吉岡先生が説教の中で言っておられたのですが、とくゑ姉妹のことを知っている方々は皆同じ一つの印象を持っている。主イエスに向かって真っ直ぐに生きていることが誰にも分かる人であった、と証しされました。私にとっても、とても印象深い方で、説教の奉仕に行きますと、必ず深々と頭を下げてにこやかに挨拶をしてくださいまして、礼拝が終わりますとしっかりと握手をしてくださいました。私は晩年の姉妹しか知りませんでしたけれども、体の衰えとかを通り越して、実に生き生きとした、信仰者として魅力的な方であったと思います。葬儀の後で、赤石先生とも少しお話をしたのですが、やはり同じことを言っていました。「クリスチャンにとって、歳をとることはいいことに思える」とも先生は言われました。車椅子に乗りながらも、礼拝を本当に喜んでおられる姉妹であったことは、説教壇の上からは一際よく分かりました。教会に集うすべての兄弟姉妹が、そんな祝福された生涯を終わりまで歩んで欲しいと心から願ったお葬儀でした。

 主の日の礼拝は、天国への途上にあって、天上の祝福に満たされる時です。ここで、主イエスが私たちと共に生きておられることが確認される場所です。礼拝の中で福音の説教がなされます。それは、今、私たちに語りかけるキリストの声を聞く場所です。福音が告げられて、聖霊が私たちのうちに働くときに、私たちの心に悔い改めが生じます。生じない時には、何かが違っていますから、その問題をなんとか解決しなければなりません。私たちの内にそこで悔い改めが起こり、新たに力を得て、今週も主イエスに従っていこうと励まされることが、説教を通して私たちにもたらされる、今ここで実現する終末の一コマです。

 礼拝の中で洗礼式が行われます。洗礼とは、私たちが信仰によってキリストと結ばれ、キリストのものとされたことの証です。また、洗礼によって、私たちは主イエスと共に自分が十字架にかかって罪に死に、キリストと共に墓から甦って新しい命に生かされることを、確信できるようになります。たぶん、そうなるだろうなあ、という曖昧なことではありません。洗礼は、私たちの信仰と共に働く保証です。天国への鍵です。

 もう一つの礼典は聖餐式です。聖餐式もまた、聖書のみ言葉と、そこに働く聖霊によって、私たちに終末を垣間見させてくれる時です。今も生きておられるキリストとの交わりが確認される場所です。地上を歩む教会は、主イエスの聖餐式を通して復活の命に生きるよう養われています。

 み言葉と礼典に加えて、祈りが終末を待ち望む礼拝には欠かせない要素となっています。「宣言」は次のように述べています。

 天上にあっては主キリストがわたしたちのために、また聖霊がわたしたちのうちにあって、執り成しておられます。それゆえ、わたしたちは、試練と苦難の中にあっても祈りが確かに聴かれることを信じて揺るぎません。わたしたちは、代々の聖徒たちと共に「御国が来ますように」と祈りつつ、信仰と愛と希望のうちに、詩編と賛歌と霊の歌を歌いながら、キリストの日に向かって歩みます。

 教会の祈りは、天におられるキリストのとりなしによって、確実に神に届きます。世の終わりに向かう途上には試練と苦難はつきものですから、時には長い忍耐が強いられるようなこともあろうかと思います。けれども、私たちに与えられている慰めは、世の終わりには私たちの願いが叶えられて、本当の安息と平和が与えられて、喜びと賛美の中に迎えられることです。

 「キリストの日」と「宣言」は謳っていますが、それは教会の内に確保されている主の日のことです。「主の日」は暦の上では週の初めに置かれていますけれども、やがて、この日がすべての終わりとなります。私たちは地上にある限り、主の日から主の日へと時をつないで、やがて来られる主イエス・キリストを待ち望みながら、終わりへ向かって共に歩んでいきます。

教会の特権と使命

 キリスト者は、イエス・キリストに結ばれているがために「神の子」と呼ばれます。そのように神々しく見えるかどうかは別にして、それが聖書の告げている、キリストにあやかっての真実な私たちの姿です。その特権を与えられているがために、同時に神の子に相応しい務めがあります。主の日には礼拝が定められておりますけれども、他の六日間には労働が割り当てられています。それぞれに異なるタラントで、私たちは世の働きに出て行きます。それがどんな働きであろうとも、学生さんにとっては勉強がそうでしょうけれども、それは天におられる主のもとから遣わされての働きです。家庭の主婦であってもそうです。私たちは日常生活をとおして、神の国のために働きます。罪に呪われた世界では、アダム以来「食べるために働かなくてはならない」のですけれども、神の子であるキリスト者には何をなすにせよ、終末の完成を目指すという目的があります。家庭での働きも、社会への奉仕も、教会での奉仕も含めて、キリスト者は無意味に働いているのではありません。むしろ、働く主体は神ご自身だと言った方が正しいでしょう。父なる神は、キリストを通して、私たちと共にあって、この世で神の国の完成を目指しておられます。ですから、どんな小さな仕事も大切です。

 中でも宣教の務めは、まさに世の終わりに向けての働きです。神はすべての人が悔い改めるのを待ちながら、福音を宣べ伝えることで神の国の建設に向かわれます。「時がよくても悪くても宣べ伝えなさい」と言われています。現代の世界は教会離れも進んでいて、宗教の相対化も同時に進んで、ますます人々が信仰から離れていくようですけれども、人の見通しと神のご計画は全く別物です。私たちに求められているのはキリストを信じて従うことですから、福音を世界に語り続けることが教会の務めです。

 その務めは狭く教会の伝道活動に限定されるものではなく、キリスト者の生活の全領域においてなされる福音の真理の証が宣教の務めです。それは教会の内でも外でもなされるべきことで、私たちそれぞれに与えられている賜物に応じて、働く場に多様性があります。「信教の自由を守る教会の闘い」もまた、宣教の働きと位置付けることができます。新しく届いた『リフォルマンダ』に、この度西部中会が出した「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に対する抗議声明」の本文と袴田康裕先生による解説が掲載されていますので、是非お読みいただきたいと思います。キリスト教会は、聖書に基づいて国家は神の主権の下にあることを主張します。それが異教社会に受け入れられないであろうと知っていても、それを語り続けるのが教会の使命であり、宣教の務めです。多元的な価値観が尊ばれて、キリスト教も宗教の一つだ位に思われる世の中ですけれども、キリスト教会はイエス・キリストの救いを普遍的な真理と信じます。国家もまた神がご自身に仕えるために人に与えた手段である、という点から、私たちは法的な秩序が守られて国が正義と平和を実現することを願って声をあげ続けます。

 今日は初めに、神の創造は終末を映し出す、ということをお話ししました。つまりそこには、神の創造された世界に関わり続ける私たちのあり方も含まれます。終末の神の国の完成に向かって、私たちは神のみ旨に叶う正義と愛と平和を作り出す働きに召されている。また、神が創造された被造世界を守っていく務めが与えられています。初めと終わりの狭間を生きる、私たちキリスト教会の歩みは、個人的な信心深い宗教生活に埋没してはいられません。キリストが実現する世の終わりへの希望をもって、積極的に人生のすべての領域に関わりながら生きるのがキリスト者です。最後には神は、ご自分で作られた世界をご自身の栄光のために完成されます。その喜ばしい務めに召されて生きるのが、終末の希望に生きる教会であり、キリスト者の人生です。こうして終末の教えは、キリスト教の人生観・世界観を形づくる要として、教会の歩みを終わりの目標であるキリストに向けてしっかりと位置付ける目的をもっています。終わりに『ペトロの手紙一』4章10節以下のみ言葉を、使徒の勧めとして聞きたいと思います。

 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

祈り

万物の初めであられる、真の創造者なる御神、あなたは私たちをキリストの下に召し集めて、神の子としての特権を与え、御国の相続者としてくださいました。その恵みに応えて、私たちがそれぞれの人生を正しくあなたの用意しておられる目標へと方向付けることができるよう助けてください。聖霊の確かな導きによって、主の日から主の日へと巡る私たちの人生を豊かに祝福してくださり、終わりの希望に向かって、生き生きと主に仕えて生きることができるようにしてください。私たちの贖い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

◆ 一日修養会講演「終末の希望に生きる」

はじめに

 毎年恒例になっていますこの一日修養会では、これまで教会設立に向けての学びや話し合いの場として用いられて来ました。昨年はそこで「教会の未来を語る」ことをテーマに、皆さんから自由な展望を述べていただいて、力を合わせて西神教会を立ち上げてゆく励みにすることができたように思います。今年の私たちの歩みは設立後の教会を主の御前に整えて行くことが目標ですけれども、そこで年に2回予定されている合同学習会では結婚式と葬式についての学びをしました。人生の重大な局面に当たるそれらの式を、西神教会が責任を持って執り行うことができるようになることは、一つの自立の証のように思ったからです。9月の学習会では、キリスト教の葬儀は神の御前での礼拝であることを中心に、葬儀を行う実際について具体的なことを含めてお話ししました。そして葬儀は人の死と正面から向き合う時ですから、そこに現れて来る信仰的な側面、キリスト者ならではの受けとめ方に着いても確認しておきたいと願いまして、今日のこの機会に終末論をテーマに取り上げることにしました。聖書は私たちにどのような生涯の終わりを約束しているのか、ということです。それは自分や家族の葬儀にどのような備えをするか、に留まらず、今の私たちの生活全体に影響を及ぼす事柄になるはずです。

 聖書の終末論に近づくためのテキストとしては、改革派教会創立60周年記念宣言として出されました『終末の希望についての宣言』を用いるのが最もよろしいと思います。その意義については昨日の礼拝でお話ししましたが、ウェストミンスター信条に告白された終末論を咀嚼して今日の言葉で言い表したものがこの「宣言」です。本来なら「信条」と「宣言」をよく比較しながら学ぶのが相応しい方法ですが、まず「宣言」に親しんでいただくために、そこに集中して今回はお話しします。

 昨日の説教でお話ししたのは、実は「宣言」の第1章に当たる部分です。「終末の希望・キリスト」という見出しで、終末とは神のご計画に基づく御国の完成である、またキリストを抜きした終末はあり得ない、という点が強調されています。今日お話しする内容は、その続きになりますけれども、時間の関係上残りの全部を取り扱うのは無理だと思いますので、「2 終末の希望に生きる途上の民」は飛ばして、「3」と「4」を取り扱うことにします。「2」の内容については、26日の宗教改革記念日の説教として、御言葉から学びたいと願っています。

聖書の終末論の射程

 まず、「宣言」の本文に入る前に、終末の教えについて概略をお話ししておきます。その内容を整理しますと、4つの側面に分けることができます。大きく分けますと二つになりまして、その広がりとして、個人の終末と世界の終末が区別されます。個人の終末とは私たちそれぞれの死と復活についてです。世界の終末とは歴史の終わり、キリストが再臨されて最後の審判がなされることです。そして、時間的に捉えますと、終末が意味するのは、その終点だけではなくて、世の終わりがキリストのご降誕と共にすでに来ている、という現在を含んでいます。それに合わせて、神のご計画が完了する、未来に予定されている終末がある。これらは互いに別々のことではないのですけれども、聖書では終末がそういう4つの側面から語られています。

「宣言」3.終末の希望の中で迎える信者の死

(1)死とその意味

 そこで、まずはその個人の側面に重点を当ててお話します。終末を個人的に捉えますと、私たちには人生の終わりである「死」がまさに終わりにあります。善人であれ悪人であれ人間は誰もが死ぬわけですが、聖書は「死」の意味を明らかにしています。「宣言」では聖書の教えを次のようにまとめています。

 罪の支払う報酬は死です。最初の人アダムの罪過は、神との交わりの断絶である霊的死と、肉体の死と、裁きとしての永遠の死とを全人類にもたらしました。

最初の人間であるアダムとエバ以来、すべての人間は罪人としてこの世に生まれ死んでいく定めにあります。そして、「死」には三つの側面があります。第一に、「霊的な死」。つまり、神との交わりが絶たれている状態です。罪の中に生まれた人間の悲惨な状態は、まずこの点にあります。パウロは『エフェソの信徒への手紙』2章でこう述べています。

 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

この「霊的な死」に続いて「肉体の死」が訪れます。肉も骨もやがては朽ちていき、人の記憶からも失われて、大抵はこの地上に私が存在したとの痕跡も残りません。「肉体の死」については誰も分かっているのですけれども、「裁きとしての永遠の死」は聖書が教える真理です。これは『ヨハネの黙示録』では「第二の死」と言われます(2:1,20:6,14,21:8)。

 こうした死の定めに対して、神が与えて下さる救いがキリストによる救いです。「キリストと命」という見出しの下に「宣言」はこう記します。

 しかし、神の賜物はキリストにある永遠の命です。信者であるわたしたちは、体も魂も、生きている時も死ぬ時も、キリストのものであり、罪の刑罰としての死と呪いから解放されています。キリストを死者の中から復活させた方は、わたしたちの死ぬべき体をも生かしてくださいます。

イエス・キリストの十字架と復活が私たちに教えるのは、神が私たちの死の問題に解決を与えてくださったことです。イエス・キリストを信じることによって、私たちはキリストと結ばれて生きる新しい命をいただき、霊的に、肉体的に、永遠に死ぬはずの人の定めが変えられます。キリストへの信仰の結果、私たちにとって死の意味がどう変わったかについて、「宣言」は次のようにまとめています。

 わたしたち信者にとって肉体の死は、罪と悲惨、この世の労苦と涙からの完全な解放、キリストのみもとに召してくださる神の愛のしるし、永遠の命のより豊かな祝福への入口です。

キリストへの信仰が、私たちの霊的な死に解決を与えてくれますから、私たちは父なる神との親しい交わりを喜びながら、神の子としてのこの世の生涯を終わりまで送ることができます。そして、キリストの十字架と復活の故に、肉体の死を越えてゆく復活の命を約束されていて、「第二の死」である永遠の裁きを恐れずに生涯を終えることができます。キリスト者にとって死の時は、自分を苦しめた罪からの解放の時です。そして、キリストと結ばれて復活の時を待つようやく訪れた真の安息です。キリスト者であるがために世の罪に悩みながら重荷を負い続けて苦労した主の僕たちには、それは待ちこがれる解放の時になるはずです。

 だから、「死を恐れてはならない」などと理屈を言っても始まりません。「宣言」は死に向かうキリスト者の謙虚な歩みを、聖書の勧めに従って次のように記します。

 しかし、今なお罪と弱さを持つわたしたちは、死を前にして恐れさえ抱く者です。死は、人生の最後の試練です。わたしたちは、復活の希望と慰めのゆえに、死を覚えてますます謙遜になり、いっそう堅くキリストに依り頼み、賜物としての日々を感謝して歩みます。

自分の死を経験した人はありませんから、不安に思うのも仕方がありません。また、キリストが私たちの新しい命となってくださったことを信じても、私たちは今なお罪を犯しつつ生きるのですから、神の裁きを思わずにはいられません。信仰の歩みは終わりまで罪との戦いの中で続けられます。けれども、死の意味が全く変わって、私たちは復活に向かって死の門をくぐるのですから、その信仰によって終わりまで支えられます。

(2)死後の状態

 では、私たちは死んだらどうなるのか、ということですが、これには大いに関心がもたれていることと思います。「天国はどんなところか」と思い巡らして、人は想像力を屈指してその様子を描き出そうとします。けれども、それをあたかも見て来たかのように語る教えは、聖書の中で極めて限定されています。『黙示録』がその代表格に当たるかと思いますが、教会はその幻の扱いを非常に慎重に進めて来ました。聖書の全巻から説教をしようと試みたカルヴァンも、『黙示録』の講解はついに著しませんでした。また、聖書正典には含まれなかった古代の「外典・偽典」には、天上の世界の目撃談などを含むものがありましたけれども、これを教会は聖霊の霊感によるものとしては受け入れませんでした。

 聖書に明らかにされた死後の状態は、専ら私たちと神との関係について語ります。それをまとめたところの宣言文は次のように記します。

 死の時、わたしたちの魂は完全にきよくされ、ただちに頭であるキリストのもとに引き上げられます。天上の勝利の教会へ移された魂は、地上にあるよりもさらに豊かな、キリストとの栄光の交わりにあずかり、先に召された聖徒たちとの愛の交わりを喜び、彼らと共に神の御顔を仰ぎます。同時に、体は、キリストに結び合わされたまま墓の中に休息し、栄光の神の国における体の完全な贖いと天地の完成を待ち望みます。

書かれていることを順に辿りますと、死んだときに「わたしたちの魂は完全にきよくされ」ます。すなわち、聖化の完成です。地上の生涯では罪と汚れとを引きずって生きる他はなかったのですけれども、死ぬ時にはそれらをもってゆかなくてよい。そして「ただちに頭であるキリストのもとに引き上げられます」。死ぬと成仏しない霊魂が地上にさまようということはありません。ここで「頭であるキリスト」とあえて言われるのは、教会の頭であるキリストが天におられる、という天上の教会のことが念頭にあるからです。続いてこう言われます、

 天上の勝利の教会へ移された魂は、地上にあるよりもさらに豊かな、キリストとの栄光の交わりにあずかり、先に召された聖徒たちとの愛の交わりを喜び、彼らと共に神の御顔を仰ぎます。

天には主イエスが御支配なさる教会がある。それは地上の教会のように不鮮明な形ではなく、死を滅ぼされたキリストの栄光に満ちた、完全なかたちでの勝利の教会です。ですから、地上の教会との結びつきが大切になります。天上の教会と地上の教会、見えない教会と見える教会は全く別のものなのではなくて、地上の教会の完成した姿が天上の教会です。地上の教会生活を終えて死んで完全に浄められた兄弟姉妹の魂が、キリストのもとに集められて天上の栄光の教会を形づくるわけです。そこに「先に召された聖徒たち」がいます。礼拝の中で私たちが唱えている「使徒信条」に「聖徒の交わり」とありますけれども、それは地上の教会のことだけではなくて、天上の教会をも含みます。私たちが「天国でまたお会いしましょう」と言えるのはこのためです。そこには、肉をもった人間同士の不確かな交わりとは違う、キリストの愛が完全に姿を現した教会の交わりがあって、神の御顔を直接に仰いで賛美をささげる真の礼拝がなされます。

 他方、身体はどうなるのかといえば、葬儀で火葬にされてしまうのですけれども、骨が見える形で残っていようといまいと、私たちの身体はキリストと結ばれて確保されています。そして、終末の神の国が完成した時の復活を待ちます。

 さらに、こうして天上に備えられている聖徒の交わりには、契約の子どもたちも含まれます。信仰告白する前に召されてしまったり、幼児洗礼も受ける間もなく亡くなったなどという場合にも、神の契約に守られているおかげで、そうした子どもたちがキリストのもとに引き取られたことを私たちは信じることができます。

 ここから、私たちが世の中の考えに影響されて漠然と抱いていた「死後の世界」についての考えは、だいぶ整理がつくのではないかと思います。「宣言」には「誤った教え」とありますけれども、例えば、人間には魂などなく、物質として解体してしまうだけだ、という唯物論者の考えには与しません。また、教会でもよく間違いがあると思いますが、「死」は「永遠の眠り」などと言われますが、死んで私たちは「眠る」わけではありません。身体は眠っていますけれども、魂は天上で生き続けます。では「天とはどこか」と子どもに聞かれそうですけれども、この世を越えたところの神のおられるところとしか私たちには答えようもありません。

 「煉獄」というカトリック教会の教えは、人間は罪の過ちを他人の功績によって償うことができる、という一見ありがたい教えに基づいて作られたものですが、聖書の教えではありません。「輪廻・転生」という仏教的な考えも聖書にはありません。人間は他の何ものかに生まれ変わることはなく、今ある自分がそれぞれに神のユニークな被造物として生き、また復活します。ですから、「千の風に乗って」空中を漂う霊になるわけでもありません。そして日本では特に「慰霊」とか「鎮魂」の風習が尊ばれますけれども、人間が死んでも尚この世に「霊」として留まることはありませんし、死んだ人の霊魂を慰める術など私たちにはありませんから、教会ではそのような行事はありません。むしろ慰めを必要としているのは地上に残された遺族の方ですから、「聖徒の交わり」を覚えて天に召された兄弟姉妹たちを思い起こす記念会がもたれることはあります。

 死後の世界のこと、また終末の御国に関することのすべてが私たちに明かされているわけではありません。ですから、聖書に示されていない、分からないことは分からないままにしておく謙虚な姿勢が教会に求められます。聖書に示されていることは、私たちが信仰者として人生を終わりまで生き抜くために、信ずべきことがらに限られています。それは、今見てまいりました通り、私たちは死んでもなおキリストと結ばれていて、死の向こう側にある命の喜びと神の国の栄光を見させていただき、体の復活を約束されている、ということです。

「宣言」4.キリストの再臨と神の国の完成

(1)キリストの再臨

 さて、次の項目へと進みます。今度は未来における終末、キリストの再臨と最後の審判についてです。「宣言」の「4」には「キリストの再臨と神の国の完成」とあります。

 「再臨」とは、復活したイエス・キリストが弟子たちの目の前で天に昇っていかれたのと同じようにまた、天から下って来られることを指します。『使徒言行録』1章11節では、こう言われています。

 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。

「宣言」は次のようにまとめています。

 天上の主キリストは、終わりの日に、大いなる力と栄光を帯びて、肉体をもって日に見える姿で天から到来されます。すべての人の目が彼を仰ぎ見ます。

いつ来られるのか、ということでは神のみが予定しておられる「終わりの日」です。それを何月何日と詮索することは私たちには許されていません。それをあえて行って失敗した人々がキリスト教会の周辺に多くありました。どのように来られるか、という点では、「大いなる力と栄光を帯びて、肉体をもって目に見える姿で、天から」来られます。実はキリストは目に見えない霊として今来ているんだ、とか、普通の人の姿をしているけれどもあの人は実は再臨のキリストだ、とかいう言葉に惑わされてはいけない、ということです。

 そして、何のためにキリストは再臨なさるかという点は、こうです。

 主の再臨の目的は、義をもってこの世界を裁き、すべての悪の力に勝利し、御自分の民を四方から集めて神の国を完成し、父である神に御国を引き渡すためです。

(2)体の復活

キリストが再臨なさるのは神の国の完成のためです。そして、キリストの再臨はそれに続く幾つかの出来事と結び合っています。第一に、死者の復活がその時に起こります。

 再臨の日に、主キリストは、すべての死者をよみがえらせ、最後の敵である死を滅ばされます。キリストに結ばれて死んだ人たちは、一人も失われることなく、朽ちるものから朽ちないものに復活し、キリスト御自身の栄光の体と同じ形に変えられます。その日に、生き残っている人たちは、一瞬にして変えられます。これは、「命を与える霊」となられたキリストの力によります。

この時に復活するのはすべての死者です。そこですべての者が最後の審判に臨むことになりますが、主にあって死んだキリスト者には復活の体が与えられます。よくされる質問は、復活した体はいったい何歳のからだか、ということですが、確かに100歳の長寿で亡くなった方は地上では祝福されたことになりますが、復活して尚100歳でしたらちょっと可哀想な感じもします。これには正直なところ答えはありません。復活した主イエスが弟子たちには直ちに認識できなかったことや、その体は地上の肉体とは異なる栄光の体であったことを思えば、「何歳」とは余計な心配なのでしょう。復活する時には、信者はキリストに似た者になる、またキリストと同じ栄光の体に甦る、と言われています。

 もう一つの疑問は、キリストが再び世に来られた時、死なずにまだ生きている者たちはどうなるかということですが、これには聖書は答えていて、生きたまま変えられると言われています。復活の体は、朽ちる肉体とは別物ですので、もはや体のことで私たちが悩まされることはありません。

(3)最後の審判

 キリストの再臨に続いて行われる第二のことは、「最後の審判」です。聖書がそれをどのように教えているかは、「宣言」が次のように述べています。

 主キリストは、死人をよみがえらせた後ただちに、御父から委ねられた裁きの権能により、義をもって審判を行われます。すべての人は、キリストの裁きの御座に進み出て、彼らの思いと言葉と行いについて申し開きをし、また善であれ悪であれ、自分が行ったことに応じて報いを受けます。

これは「審判」つまり「裁判」です。すべての人はここでキリストの御前に立って、地上の生涯で何をしたか、何を語ったか、何を考えたか、そうした生活のすべてが吟味されて処断されます。この点について、信者も未信者も区別はありません。ですから、キリスト者といえども地上の生涯で安心しきってしまう訳にはいかないのでして、罪を犯さないように誘惑と戦わざるを得ません。

 しかし、これは「キリストによる裁判」ですから、審判に臨む信者と未信者との間には大きな違いがあります。キリスト者はそもそも自分の罪を認めて、それを告白して、赦されてキリストの民に受け入れられました。その民の一員である信仰者には、「最後の審判」は驚きではありません。「宣言」はこう告白しています。

 審判の日は、主を待ち望むわたしたちにとっては大いなる慰めと希望の日です。救い主キリストは、わたしたちのためにすでに神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしたちから取り去ってくださったからです。わたしたちは、その審判者キリストによって、公に受け入れられ、無罪を宣言されます。そればかりか、弱さと欠けを伴うわたしたちの行いでさえ、キリストのゆえに報いが与えられ、義の栄冠が授けられます。こうして、わたしたちは、天地創造の前から用意されていた神の国の喜びと祝福の内へと招き入れられ、それによって神の憐れみの栄光が現されます。

終わりの日に、私たちの隠れた罪はすべて神の前に明らかにされます。けれども、そこで裁かれるべき私たちの罪のためにキリストは十字架にかかり、恥を忍ばれて、死んでくださいました。ですから、私たちはキリストを信じて従ったその点だけで「無罪」を宣言されるのでして、キリストと共に栄光を分かち合うものとされます。

 他方、そこでキリストを拒んだ者には最後の審判は驚くべき、また恐るべき日となります。特に地上で神の教会を迫害し、権力にものを言わせて人々を苦しめた圧政者たちには、最終的な滅びの時です。聖書はこうした者たちに対する断固とした裁きを語っています。「宣言」はこうまとめます。

 一方、その日は、福音の招きを最後まで拒み続けた者たちにとって、とりわけ専制者・異端者など、主とその御国に背くすべての者たちにとっては、大いなる恐れの日です。罪と不信仰のゆえに恥辱へとよみがえらされた彼らは、審判者キリストによって公に有罪の宣告を受け、永遠の刑罰のもとに置かれ、それによって神の正義の栄光が現されます。

ここから考えさせられることは、この地上では悪を行う者たちに対する裁きが後々までとって置かれることもある、ということです。善には善を、悪には悪を報いるのが神の常道であるとは言え、神のご計画にあっては、その時の定めは人間の思いを越えています。ですから、悪い時代には忍耐しなければならないときが私たちにはあります。しかし、最後にキリストの審判を逃れることのできるものはありません。最後までキリストを拒否し続けた者には第二の死が待っています。

 また、ここから私たちは伝道の意味についても考えてみなくてはならないように思います。多くの未信者の人々は悪人ではなく、善良な市民も多くいます。それでもこのような審判が人間の運命には定められているわけです。キリストへの信仰がその分かれ目になるのですから、福音を伝えるのにも真剣にならざるを得ません。『エゼキエル書』33章8節に、「わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める」とあります。福音を伝えるのを怠っていて、そのために隣人が不信仰で滅びるのだとしたら、その責任は私たちに問われます。ですから、自分のことだけ考えて信仰生活を送る訳にはいきませんし、また、最後の審判と言う終わりの定めについて自分に都合良く考えて、何とかなると放っておくわけにもいきません。最後は神の定めに従う他ないのですけれども、私たちには福音を伝える責任が与えられています。

(4)栄光の神の国と永遠の命

 永遠の神のご計画には、神が定めた終わりがある。その日、天におられるキリストがもう一度この世界に来られて、最後の総決算なる裁きを行われる。そうして、神のご計画は神の国の完成を見て完了する。これが聖書が私たちに教えるところの歴史の見取り図の最後の部分です。その終わりの様について、聖書が示すところをまとめるのが「宣言」の「(4)栄光の神の国と永遠の命」の段落です。

 まず、最後の審判が行われて、人も世界も万物は新しくされます。それは、天地創造の記述の中にある、祝福された世界の完成と重複します。世界は人間とともに堕落したのですけれども、その罪と汚れにまみれた長い歴史はついに断ち切られて、キリストのもとにある新天新地が神の完全な祝福のもとで姿を現します。それは「極めて良かった」と評価された世界の完全な現れです。

 預言者はその終わりの日に向けて、神が実現する正義と平和を告げていました。人類が遠い昔から幻に見た世界的な救済がそこには描かれています。それらの言葉をまとめて「宣言」はこう表わします。

 新しい地には主を知る知識が満ち、正義が支配し、平和は大河のように流れ、国は国に向かって剣をあげず、もはや戦いはありません。あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から数え切れないはどの大群衆が、神に仕えるために自分たちの栄光と誉れを携えて新しいエルサレムにやってきます。これはキリストによって贖われた契約の民、小羊の花嫁としての栄光の教会、栄光の神の子たち、キリストにある新しい人類です。この神の民は、世々限りなく主と共に統治します。

聖書の中に「地を受け継ぐ」と言われている箇所は、最終的にはこのビジョンに行き着きます。かつてイスラエルが約束の地、嗣業の土地を目指して困難な旅を続けたように、キリストの民である教会もこの世の旅路の果てに安息の地にたどり着き、「新しい人類」として栄光の神の国を受け継ぎます。そうして約束された最後の安息は聖書から次のように告げられています。

 新しい人類であるわたしたちは、キリストにある神との交わりとしての永遠の命の完成にあずかります。神は自らわたしたちと共に住み、わたしたちの神となられます。わたしたちの涙はことごとくぬぐい去られ、もはや死も悲しみもありません。わたしたちは、完全にまた永遠に罪と悲惨から解放され、体と魂の両方において栄光化され、まったき安息が与えられます。わたしたちは、無数の聖徒たちと御使いたちとの交わりの中で、神の御顔を仰ぎ見、完全な知識と愛において永遠に神を礼拝し、考えも及ばない喜びに満たされて神の栄光をほめたたえます。

私たちの想像もつかない終わりの世界ですけれども、この約束を信じて生きるのがキリスト者です。人間の死に直面して「空しい」と呟くコヘレトの世界は旧約と共に過ぎ去って、キリストを迎えた終わりの時代には、ここに展開された終末の希望が与えられています。私たちがどう思うかに関わらず、聖書は「万物をキリストのもとに一つにまとめる神のご計画は、その目標に到達する」と告げています。人間の命や世界を滅び行く空しさへと押しやるのは人間が罪に対して無力であるからです。終末の完成へと向かう力はただ信仰によってのみ与えられます。キリストにある約束を信じて、今ある命を忍耐しながら生きていく、教会の兄弟姉妹たちと神の国を目指して生きていくことの中にこそ、明るい未来からの光が指して来ます。

「序文」と祈り

 今回、ご一緒に学びました「終末の希望についての宣言」は、創立60周年(2004年)という時代の文脈において出されたものです。その背景について「宣言」の序文はこう語っています。

 二十一世紀に生きるわたしたちは、被造世界の破壊と人間性の喪失の危機に直面しています。さらに、今日、わたしたちの国は三十周年宣言が警告した「旧日本への回帰の傾向」をいよいよ強めています。そのような中にあって、わたしたちは物質的繁栄のただ中で霊的眠りの誘惑にさらされ、また横行する様々な非聖書的終末論の危険に取り囲まれています。わたしたちは、聖書の終末の教えを正しく理解し、この時代の闇の力を見抜き、悔い改めと新しい服従の中で、主キリストこそ世界の希望であることを世に向かって大胆に宣言しつつ、栄光の御国に向かって前進します。

ここに表明された時代に対する危機感は、さらに10年の歳月を経て一層深く募って来たように思います。今の時代は、まるで自分の手で世界に終末をもたらすことができるような狂気に満ちています。核の問題しかり、グローバル経済の問題も地域紛争の問題もそうです。しかし、世の終わりをもたらすのは人間の手ではなく、キリストによってです。私たちは、ですから、この世の原理に従って、滅びに向かって流されてしまってはならないのでして、聖書の教えに固く立って、キリストにある希望にしっかりと眼差しを向けて、贖われた命を最後まで生き抜く者でありたいと思います。信仰を与えられた私たちは、すでに神のご計画の中を積極的に生きています。聖霊の助けを祈りながら、神に信頼して、キリストに従って行きたいと願います。

 「宣言」には祈りの言葉が前後に置かれています。私たちの思いではなく、聖書の真理が示されるようにと願っての配慮がそこに表わされています。その祈りによって今日の講演を終わりたいと思います。祈ります。

 希望の源である御神、わたしたちは、あなたから賜った終末の希望について、今信ずるところを「宣言」において表明しています。これをもって、あなたの御言葉の啓示に従い、御霊に導かれ、その真理を正しく告白できますように。どうか、この「宣言」によって、試練と迫害の中にあっても、心を挙げて天上の主を仰ぎ、信仰の良き戦いを戦い抜くことができますように。どうか、死の床にあっても、キリストにある復活の希望に生きることができますように。

 わたしたちの希望である主イエス・キリスト、御霊に導かれ、新しい歌を歌いつつ、わたしたちはあなたを待ち望みます。主よ、わたしたちは待ち望みます、わたしたちがまったく聖なるものとされて、とこしえにあなたと共にある日を。あなたの造られた世界がまったく贖われて、とこしえにあなたのもとに安らぐ日を。御霊と共に祈ります。主イエスよ。来てください。

主の御名によって祈ります。アーメン。

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