御言葉に従う教会~長老主義の原則と実践

2011年11月3日 西神伝道所一日修養会 於しあわせの村

序.板宿教会の献身と私たち西神伝道所の目指す処


 教会が福音を宣べ伝える聖霊の御業に奉仕したいと願い、志を与えられた幾人かの兄弟姉妹を核にして伝道所を開設することは、一つの教会が成熟していく過程で最も相応しく、また祝福された献身の仕方だと思います。その価値はおそらく会堂建築以上の尊さをもっています。日本キリスト改革派板宿教会はその尊い志をもって教会員である数名の兄弟姉妹を送り出し、西神地区での集会を開始しました。その思いと働きとが聖霊の祝福を得て、西神伝道所が今あるかたちに実りを見ています。ですから、私たちの伝道所が板宿教会によってキリストにささげられた群れとして、ここから更に発展して自立した教会となることは、初めから私たちに与えられている目標です。


 教会設立の目標はこれまで長谷川潤教師と赤石純也教師によってもずっと掲げられて、皆さんと一緒にそのための準備をして来られたことと思います。11月に毎年もたれるこの一日修養会も、その意識を高めるために、学びや懇談がなされる機会でした。今日、私が発題させていただく内容も、おそらくこれまで何度も皆さんが耳にして来られたことだろうと思いますし、また何度も思い描いて来られたことだろうと思います。繰り返しになるかも知れませんが、私が新しくここに遣わされて来て、その志を引き継ぐことになりましたので、改めて私なりに思う処を述べさせていただきたいと思います。


 これからお話ししますのは、西神伝道所が教会法の上で正式に「西神教会」となるためには具体的に何が必要なのか。そして、そうなった暁には今と何が違ってくるのか、ということです。それを前もって知った上で、これから皆さんと一致協力して準備をしたいと願います。そのために必要な賜物を熱心に祈り求めたいと思います。教会の果実は聖霊の御業ですから、私たちの計画通りに事が進むとは限らないのですけれども、私たち自身がそのことに熱心になりませんと実らないということだけははっきりしていると思います。

 

1.政治的独立


 まず、「伝道所」という立場について簡単に確認しておきたいと思います。週報にも「日本キリスト改革派板宿教会所属」と書いてありますように「西神教会」という呼び名は外向けの通称でして、教会法的には、私たちはまだ教会としては独立した群れではない「伝道所」です。ですから、私たちの法的身分は「板宿教会員」ですし、板宿教会小会の監督・牧会の下ですべての働きが行われます。実際としては、板宿教会が私たちを殆ど独立した群れのように扱ってくださっていますから、私たちは自立した別個の教会のように見えますけれども、何かあった時に、例えば、教会員の異動とか、牧師招聘とかの問題に対して私たちは板宿教会小会の判断を仰がねばなりません。板宿教会協力牧師の私と松田義人長老が板宿教会小会の議員ですから、そこで協議をしてすべての判断を下すということになります。

 

 そうしますと、私たちが独立するためにまず必要なことは、私たちが独立した小会をもつ、と言うことになります。「小会」とは教会政治に独特の用語で、教会会議にはその地域的な広がりに応じて、「大会」「中会」「小会」が構成されます。「大会」は全国規模の総会、「中会」は地域ごとの会議、「小会」は一つの教会の中におかれる会議です。これらの会議の議員になることができるのは、各教会で選ばれた長老たちです。この場合の長老には牧師も含まれます。こうした長老たちの会議によって教会の運営、つまり政治を行う形態を「長老主義政治」といいます。

 

 改革派教会では、長老主義によって教会の制度を打ち立てることが聖書の教えに適うことだと信じています。民の代表として責任を負わされた長老たちによって共同体の秩序の維持を図ったのは、旧約聖書にある神の民イスラエルの方法でしたし、キリスト教会が使徒たちによる宣教によって地中海世界に広がって行く過程においても、教会に長老が立てられることで基盤が据えられていったことは使徒言行録から学んでいるところです。


 たとえどのような制度を取ったとしても、キリストの教会を治めるのはキリスト御自身であるのには違いありません。天で地上を治めるすべての権限を与えられている復活の主イエスが、地上の教会を治めるために取られた方法が長老制ですので、長老たちは主イエスに仕え、神の民である会衆に仕えることがその働きです。人の権威でもって民を従わせることではないので、教会の奉仕職には最大限に謙遜さが要求されることと思います。

 

 キリスト教会の統治方式については監督制や会衆制が他にもありますけれども、聖書から知らされる聖霊によって立てられた教会に相応しい制度は長老制であって、実際としてもバランスのとれた知恵ある教会統治の方法と思われます。

 私たちが教会設立を果たすためには小会をつくることができなくてはならない。その為には長老が最小限2名必要となります。牧師と長老一人ずつでは会議と認められません。ですから私たちの場合、私たちの中から長老を一人選ばなくてはならないということになります。また、一人選んだとしても、転勤や定年など何かの理由で長老が一人いなくなってしまえば、また教会は伝道所に戻らねばならないことになります。ですから、伝道所は教会になることばかりを考えてはおれないのでして、独立教会であることを維持していくことも念頭に置いておかなくてはなりません。

 

 小会ができて晴れて私たちが独立教会になりますと、西神教会の活動方針は西神教会の小会で協議されて決定されることになります。今でもそうなのですが、牧師が決定権を持つのではありません。特に小会の権限として本質的に重要なのは、洗礼を許可することと聖餐を受けるのを承認することです。主イエスがペトロに与えた「鍵の権能」が小会に与えられています。洗礼の許可は、受洗の志願者に対して小会が信仰と生活を試問することを通して出されます。陪餐、聖餐を受けることの承認とは、むしろ洗礼を受けた教会員が信仰と生活において甚だしくキリストの名誉を損なったと判断された場合に陪餐を禁じることです。これを「戒規」と呼びまして、私たちの教会には『訓練規定』という戒規を実施する際の規則をもっています。小会に与えられた責任と権限はですから重大です。

 

 そこには同時に群れに対する牧会の責任が小会にはあるといえます。違反したら取り上げるぞと威嚇するのではなくて、教会員が十分に御言葉の恵みに与っているか、いかにしたら教会生活を健全に送ることができるかと常に心を配って、教会の運営に当たらなければなりません。ですから、教会員の話をまるで聞かないで小会がすべてを決めてしまう、ということでは、小会はキリストの権能を正しく行使しているとはいえません。常日頃、教会員とよく交わり、それぞれの霊的な状態をよく把握した上で、様々になされる訴えにもよく耳を傾けて、教会全体の益となる方針を定めてゆくことが求められます。

 

 教会員が積極的に発言できる公的な場としては会員総会があります。教会役員である長老や執事は、会員の中から選ばれて信任を受けたものでなくてはなりません。ですから、会員総会では役員選挙を定期的に行います。一度任職を受けたものであっても、定められた任期ごとに選挙によって信任を受ける必要があります。役員選挙の他には、予算案の承認や新会堂建築の決定、牧師の招聘や辞職などの重要事項は会員総会の合意が必要です。

 

 会員総会は長老制で定められた「会議」ではありませんので、これは注意が必要です。今挙げました特定の事柄を除いては、会員総会で決定することではなくて、その場で教会員から出された意見を聴取して、小会が最終的な判断をします。そうして会員総会は教会会議ではありませんけれども、実際には教会の方針を決める上で決定的な力をもつ協議の場です。ですから、これを上手に執り行って行くことが代議制による健全な教会運営を実現するコツとなります。日本のタテ型の社会構造をそのまま反映させると本来長老制がもっている民主的な性格を歪めてしまいますし、共産主義的な平等感で声高に自己主張するとそこにある本来の神的権威が著しく損なわれます。会議に相応しい霊性とマナーが一人ひとりに求められますから、この点では幾分高い目標が課せられていて、向上心をもって臨まないと上手く道具を使いこなすことができません。

 

2.経済的独立 

 

 西神伝道所は既に経済的には独立を果たしていて、現在のところ板宿教会の援助は受けておりません。この点で私たちは教会設立に大きく近づいていると言えると思います。但し、法的には経済的独立が教会設立に条件づけられているわけではありません。

 

 現在の経済的な状態を、私自身まだ十分に分析してはいないのですが、年間予算の全体と各家庭の献金状況を見る限り、おそらくギリギリの線ではないかと思います。現住陪餐会員は今のところ34名となっていますが、牧師の交代を挟んで異動もありましたから、実質は30名以下と考えておかなくてはなりません。ですから、経済的な独立を考えて行くためには、今の線で自動的に教会を維持できるわけではなくて、やはり自分の家庭を維持しなくてはならないのと同じように、教会を自分の家として維持していかねばという思いで一致していきませんと、設立を果たしてもまた何処からかの援助に頼るということにもなりかねません。一端独立してしまいますと、西神教会は板宿教会からは離れますから、また後で援助を乞う関係ではなくなります。

 

 子どもが親元を離れて独立を果たすのは、社会人として経済的な独立を果たすことによってであるのと同じように、教会としてもそうした自立心をもつようになりませんと、独立は果たせないのだと思います。それは、自分の教会に対して自分で責任を持つということですので、いうまでもないことなのかも知れませんが、教会設立に当たってはそのような経済的な側面での決心をも主にささげることが求められます。

 

 そうしますと、私たちが目指す教会設立が順調に進むためには、人材の賜物という点でも経済的な必要を満たすささげものという点でも、伝道の働きが祝福されませんと適わないということになります。今は私も赴任してきた最初の年でもありますので、その必要を感じるところから、改革派教会の教理ですとか長老主義の原則ですとかを中心に学ぶ機会を設けていますが、伝道という点からすると、やはり説教においても集会の持ち方においても、教会外に向けての違うアプローチの仕方を考えなくてはならないと思っています。

 

3.「日本キリスト改革派西神教会」となるために 

 

 私たちが板宿教会所属伝道所から日本キリスト改革派西神教会となるために必要な法的な条件や信仰の決心と見通しなどをお話ししましたが、もうひとつ教会設立に関わる根本的な課題を考えておきたいと思います。それは、私たちが教会設立をするということは、日本に真のキリスト教会を建てるという、日本キリスト改革派教会を創立した先輩たちの志に同意し、それを受け継いで、自らの手で教会を建てるのだ、ということです。真のキリスト教会とは、御言葉に従う教会であるということ。そこに「改革派教会」という看板の意味があります。では、御言葉とは何かと言えば、神の言葉である聖書から知らされる救いについての真理です。それを、私たちが信じるべき真理として、公に表明したものが信仰告白であり、私たちの教会で信仰の基準となる信条です。この信条を元に教会の制度をも定めて、御言葉に純正に従う教会を目指したのが、宗教改革以来の改革派教会の現在に続く歴史であり、私たちの取り組みです。私たちはそうしで福音の宣教が改革派教会の形成によって果たされ、神の国が進展すると信じるわけです。教会が一つ立つということは御国が進展したことの見えるしるしなのですから、私たちはそれを果たすことで聖霊の働きの証となる光栄を受けることになります。そのための教会設立ですので、その大元の理由をもっていませんと、一体何のために設立を目指すのか分からなくなります。また、それを思いませんと、御言葉に従う教会を日本に建設する、という目的をもって神に仕えることができなくなります。

 

 そこで、日本に改革派教会を作りあげるのに、どんな困難があるかということを、かつて吉岡繁先生が青年修養会で講演なさったことがあります。今でも、有益な議論だと思いますので、それを紹介しながら一緒に考えてみたいと思います。

 

 基本的な問題/障害として私たちの前に立ちはだかるのは、日本人の宗教意識だと吉岡先生は言われます。多神教であり、天皇を頂点とするタテ型の社会構造であり、道徳的であるよりも情緒的・審美的な宗教感をもっている伝統的な意識が強い。そこにヨーロッパの精神をも形づくって来た「改革派」教会を建てるのですから、目には見えなくても激しい抵抗があるのは当然だと思います。その抵抗は、むしろ日本の教会に内在するものでもあって、私たちは自分の内にある日本性を克服しながら、改革派教会の信仰告白に表された確かな救いを生活の中に実らせていかなくてはならない。

 

 具体的にどういうことにその日本人的な抵抗が現れるかといいますと、3点あります。まず、教派をつくることへの反感。「和をもって尊しと為す」という精神には本来合議をもってことを正しく判断すべしという意味があったようですが、それが情緒的に理解されますと何事も曖昧にしておいても角が立たない方が良い、という緩やかな事なかれ主義に収まります。そうしますと、厳格な教義を打ち立てて垣根の内と外をハッキリ区別するという姿勢は、概してヨーロッパ的であるとして否定されます。キリスト教会はキリストの体ですから本来は一つのものであって分派主義を標榜するものではないことは、聖書の中でパウロたちが論じている通りです。けれども、救いに関する福音の真理を巡っては、いささかも曖昧にしてはならないのも、神に従うことを真面目に求めて、福音を通して確かに救いを受け取った信仰者たちに共通する姿勢でした。宗教改革以来、プロテスタント教会は己が信じるところに従って多数の教派を生み出しましたが、キリストを主として崇める真の信仰を通して、かしらなるキリストに結ばれた見えない教会は一つであると私たちは信じます。日本人のたおやかな曖昧さや鼻に付く教派主義の自己絶対化は実践的な倫理の領域で教会でも議論される余地があります。

 

 次に出てくるのが、教理を重視することへの反感です。宗教を心の問題としたのは何も日本人ばかりではなく、近代のヨーロッパでも起こった主張でしたが、情緒的・審美的な宗教感で受け止められますと、教理によって聖書の真理を保持するという信条教会の知的な側面が人の反発を招きます。神への絶対的な依存感情が信仰だと言われましても、そこに神と救いについての正しい理解と根拠が伴わなくては、誰も真の神への信仰を保つことはできませんし、確かな根拠をもって救われているとは言えなくなります。現在、この教理への反発という事態は世界的にみても、より強化されていると見受けられます。教会の信仰における情緒の重要性は聖書にも根拠がありますから、改めて伝統的な信条教会はそれを考えてみる価値があると思いますが、巷を席巻しているムード作りの上手な宣伝主義的なムーブメントとは私たちは一線を画しています。

 

 もう一つは制度的教会への反感です。吉岡先生はこれも日本人の情緒性がその理由と考えておられるようですが、日本社会の伝統から言えばもっとずっと制度的なものが支配していたようにも思います。むしろ、近代社会の個人主義とアメリカの自由で実際的な生活感覚が影響していて制度的なものを「堅苦しさ」程度にしか受け止められないようにしているのではないでしょうか。確かに、そこに自由な人との交わりを求める心情が働いているのもそうかと思います。しかし、制度には教育的な側面があり、本来は共同体の平和を維持するものでしょう。そういう仕組みを神は教会にお与えになった、と私たちは聖書に基づいて信じています。霊の賜物はキチンと制度に則った上で聖徒たちをキリストの御業に用いることができました。教会の制度が会衆の魂を窒息させるような事態は実際に起こりますから、教会が教条主義に陥ってしまわないように、聖霊の働かれる場に注意深くあることは大切です。しかし、教会の制度はとどのつまりは御言葉ですので、それを恵みとして受け取るのが長老主義をとる私たち改革派教会の信仰です。

 

 以上のような反発が日本人の伝統的な気質であるのかどうかは改めてよく考えてみなければなりませんが、そうした向かい風を受けて一つ一つ問題を克服しながら教会を立てて行くことが私たちの課題になるかと思います。日本キリスト改革派教会の創立宣言には、信仰告白と長老主義と善き生活の三つを柱として日本に教会を建てるとありますが、それを私たちの教会で如何に実践していくかが、私たちのチャレンジです。

 

 板宿教会の方々は、私たちが自立して巣立っていくのを温かく見守りながら、祈り願っておられます。それはまた、教会のかしらである主イエスが私たちに与えておられる尊い務めでもあります。私たちも教会設立をそれぞれ自分の課題として受け止めて、そのために必要な賜物を真剣に祈り求めて、力を合わせたいと願います。

  

祈 り

 

 教会のかしらである主イエス・キリストの父なる御神、あなたは板宿教会の祈りとささげものとを通して、私たちに西神伝道所の豊かな交わりをお与えくださり、御言葉をもって養い、今日に至らせてくださいました。その恵みがさらに豊かにされて、私たちが教会を建てる幻をも与えてくださっています。どうか、あなたの福音の力によって私たちの交わりを強め、新しい兄弟姉妹をも増し加えてくださって、御旨に適う自立した教会を持つことができますよう、私たちの献身を導いてください。真実に御言葉に従う教会を建てるために、あなたが改革派教会に与えられた賜物を信じさせてください。そうして、主イエスを信じて従う私たちのこの世の生涯に、喜びの一頁を加えてくださいますようにお願いします。どうか、西神伝道所に連なる兄弟姉妹、一人ひとりの賜物をあなたが豊かに祝福して用いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

お問い合わせ

電話・ファクス 078-992-6658

神戸市西区糀台2-20-7

牧師 弓矢健児 (ユミヤケンジ)

最寄駅

市営地下鉄西神中央駅から徒歩7分

※車でお越しの方は近隣の有料駐車場をご利用ください。