礼拝説教

「キリストへの時間」ラジオ説教 2016年5月15日放送分

 ルカによる福音書より「悔い改めから始まる人生」→キリストへの時間HP

「キリストへの時間」ラジオ説教 2016年5月22日放送分

 テモテへの手紙二より「聖書から始まる人生」→キリストへの時間HP

 2016年1月13日 松田一男引退牧師葬儀説教 

 「最後の登攀」牧野信成牧師

 2016年3月4日 世界祈祷日 於板宿教会

子どもたちを受けいれなさい、そしてわたしをも〜キューバからのメッセージ」牧野信成牧師

2017年1月29日 主イエスは我らの羊飼い(年間標語)

詩編23編

年間標語解題

 

 今日はこの礼拝に続いて定期会員総会が行われます。昨年私たちがささげてきた一年の活動を振り返って、主がどのように西神教会を導いてくださったのかを確認し、主に感謝する機会です。そして、2017年の歩みをどのようにささげるかを年間の活動計画と予算案の取り決めによって、決意を表します。昨年も、私たちがこうして主の日ごとに集うところに、主なる神は御言葉を与えて私たちを養い、主イエスと共におらせてくださいました。聖餐式の交わりを通して、私たちを信仰の内に憩わせてくださいました。その変わらない恵みを今年も西神教会の歩みの上に願います。

  そこで、今年の年間標語は「主イエスは我らの羊飼い」としました。それは、私たちに与えられている今年の主な課題が牧師招聘であることと関連します。私は今年の7月末でここを離れて、次の任地である長野に移ります。ですから後任の牧師が着任するまで西神教会は無牧になります。制度上のことから言えば、改革派教会では無牧という空白状態を作らないために代理牧師を立てねばならないことになっていますから、牧師がいなくなることはありません。8月以降のことは、すでに板宿教会の吉岡契典牧師に代理をお願いしています。しかし、代理は代理ですから、一時的な空白を埋めるための措置に過ぎません。後任の牧師が一日も早く与えられることは、今年一年を通じての教会の祈りです。

 牧師がいなくなることへの不安を前にして、今年の標語が選ばれています。「主イエスは我らの羊飼い」。詩編23編の冒頭にある御言葉です。勿論、『詩編』には「イエス」という語はありません。新約聖書で主イエスが述べておられる御言葉を重ねて、私たちは正しくそのように言うことができます。

 

詩編23編

 『詩編』23編は、真の神への信頼を歌う詩として、おそらく『詩編』の中では最も好まれている一編です。改めてその言葉を確かめてみたいと思います。

  初めの言葉は、「主がわたしの羊飼いである」とあります。『新共同訳聖書』では、「わたしの」という言葉が省かれていますが、それは1節の全体でもはや前提となっているからそれでよいとのことです。「主がわたしの羊飼いであるから、わたしには欠けるものはない」、十分に満たされている。その満たされた様子がこの詩の本体にあたります。

 

 2節では、羊飼いが羊を草原へ、また水辺へと導いて、食べ物・飲み物を与え、安らぎを与えてくださる、と歌われます。これが喩えを用いた描写であることは誰にでも分かります。主が羊飼いだとすれば、私たちは羊である、と喩えて、こう述べられているわけです。ですから、ここに述べられる一つ一つを私たちの信仰生活に当てはめることができます。

 

 私たちは主イエスが導くがままに神との交わりにある憩いの場に入れられます。そこで私たちは、霊の真の食べ物・飲み物である御言葉によって養われて魂の安らぎを得ることができます。そこで、3節、「主はわたしの魂を生き返らせ、義の道にわたしを置かれます」。これが原文の読み方です。私たちの身体の養いは不可欠で、水と食糧で命を保たねばならないのですけれども、それと同様に、主の御言葉は私たちの命に生きる力を与え、私たちが神の愛の下で生きるために不可欠です。そして、そこに「御名のために」という一句が加えられます。

 主イエスが私たちを御言葉で養ってくださるのは、主ご自身の栄誉のためです。主の御名が、そうして、救い主として、愛の神として世に輝き出るためです。羊飼いが羊を守るのは主人のためですけれども、それと同じように、羊の群れである私たちは神のものですから、主イエスはこれを命がけで守り養ってくださいます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と、『ヨハネによる福音書』で、主イエスが語っておられる通りです(10章11節)。主イエスは十字架で御自分の命を投げ捨てて、罪の裁きの下にある私たちを救い出してくださいました。

 だから、4節、

  死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。

  あなたがわたしと共にいてくださる。

  あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

「死の陰の谷」とあるところは、本来は「暗い谷間」という意味が暗喩として解釈された結果と思われますから、「災い」もまた「悪」と理解してよろしいでしょう。私たちの命を脅かす死の恐怖は、主イエスの十字架と復活によって取り去られました。私たちは贖われた群れとして、いつも主イエスと共にいます。「あなたの鞭、あなたの杖」とは、御言葉が語るところの叱責と励ましです。神の顧みの下にある「正しい道」は、神の言葉である聖書に従う私たちの生活の内にあります。聖書は私たちに赦しと慰めだけを語ってはいません。私たちが道から逸れないように、つまり、罪に誘われて再び迷える小羊となってしまわないように、時に厳しさをもって語ります。そのための「鞭、杖」であるわけです。例えば、「自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」との言葉が主イエスの権威を受けた使徒の口から教会に向けて語られます(『ヘブライ人への手紙』12章13節、他)。

 この4節からは、直接的に主を仰いで「あなた」と呼びかけながら、その恵みを語っていますが、続く5節にはこうあります。

  わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

  わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

 

たとえ死の陰の谷間を行く時も、わたしは恐れない。そして、わたしを苦しめるものがあったとしても、主の食卓がわたしのために用意されていて、わたしはそこで豊かなもてなしに与っている。これが、神を信じる者たちを支える恵みの真実です。2節について、聖餐式と合わせて私たちは読むことができましたが、この5節で再びそこへ戻ります。 

 この世界はとても緑の草原のようだとは言えない。憩いのみぎわなど何処にもありそうもない、と現実から来る反発が帰ってきそうですが、この詩はそういう現実を踏まえた上で、そう言っているわけです。たとえ死の暗闇に覆われようとも、たとえ自分を苦しめる者が襲ってきても、わたしにはわたしを尊んで最高のもてなしをしてくれる宴席がある。それが、主と結ばれた交わりであり、私たちの礼拝に備えられた礼典です。聖餐の礼典は、主イエスとわたしとが一つに結ばれていることを確認する式典です。主イエスと結ばれたわたしが、そこで神の子としてもてなしていただきます。主のからだである命のパンと杯が、そこで私たちにふるまわれます。たとえ戦争中であっても、そこに教会の交わりがあるかぎりこの食卓は取り去られません。たとえわたしが人生の危機に直面していても、その宴席から外されはしません。

 そして、締め括りの6節、

  命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

  主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

「恵み」とは、言葉通りに言えば「良いもの」です。その良いものと神の慈しみがわたしを追い立てるようにして、わたしは主の家に帰り着く。わたしが幸せを追いかけていくのではないわけです。主から来る良いものと慈愛がわたしを追いかけてくる。人生の終わりまでそうなのだ、と言います。そして最後に、わたしは主の家に帰りつく。これを復活の約束と合わせて終末のことと受け止めれば、私たちは天にある故郷にたどり着いて、永遠にそこにとどまる、ということとなります。

 また、それを私たちは地上の生涯でもいつも繰り返し学んでいます。恵みと慈しみに追いかけられるようにして日々を過ごし、主の日ごとに礼拝がささげられているこの場に帰ってくる。生涯、そうしてわたしは主のもとにとどまっていよう、との揺るがない信仰がここにあります。

 ここに歌われているキリスト者の人生観には欠けるところがありません。神を頼りにして生きる人の生涯はこのように祝福の内に守られています。主イエスが真の牧者であるならば、わたしには何も欠けることがない。その幸せと慰めを、今年一年、私たち一人一人が確かに保つものでありたいと願います。

真の牧者はイエス・キリストのみ 

 普段の生活の中で人間に頼りたいのは人情ですし、牧師からしても少しは頼りにしてもらえないと寂しく感じることもあります。確か昔、とある教会で「牧師なんかに私は頼っていない」と面と向かって言われたことがあって面食らったのですが、おそらくそれは、本来あるべき牧会の恵みを受けたことが無いのだろうと残念に思いました。牧師にでは無くキリストに頼ることは正しいのですが、そのキリストがお遣わしになった牧師を信頼できないのは信仰の躓きです。

 逆に今度は、牧師がいない教会には行きたくない、などと思うようでしたら、今日の詩編から信仰のあるべき姿をもう一度学んで欲しいと思います。教会が無牧になり、それが長く続くと教勢も落ちてきます。私も青年時代に、仲間の青年たちが無牧であった教会から去っていく寂しさを経験したことがあります。牧師ではなくキリストが教会でわたしを養ってくださっている、ということは、牧師のいる時から常に意識しておきたいところです。

 また、牧師を頼りにできないのには罪ある世界での現実もあります。実際のところ、尊敬できる牧師であれば幸せですけれども、人間としてはとてもと思える牧師の方が多いのではないかと思います。それを牧師自身が言い訳にしてはならないのですけれども。

 主イエスが真の牧者として世に来られたことの背景には、この世の牧者たちの不甲斐ない現実がありました。旧約聖書の預言書を開いていただければ、牧者として立てられた指導者たちに対する厳しい非難の言葉が幾つも見い出せます。例えば、『エレミヤ書』23章にはこうあります。

「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。(1−2節)

ここで言う『牧者たち』とは、王や官僚や預言者・祭司などのイスラエルの指導者層を指します。彼らは真の神への畏れを失って私腹を肥やすことに専念して国を滅びに導きました。『エゼキエル書』34章ではその主題が十分に展開されて次のように訴えられます。

 主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。(1−11節) 

こうして人間の牧者に見切りを付けて、神ご自身が「わたしが自分で世話をする」と名乗り出てこられて、一人の牧者が送られます。続きの23節以下にはこうあります。 

 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。

こうした預言に支えられて、ダビデの子であるイエスが、真の牧者になられました。ですから、神の羊の牧者はイエスお一人であって、人間の牧者がその代わりになることはもはやありません。

牧師を招聘するにあたって 

 その上で、今度は主イエスの権限の下で、主イエスのお働きを地上で行うための使徒たちが選ばれて、主の羊の群れである教会が立てられました。そこでの牧師は主イエスの僕に過ぎませんし、神の民がそこで主イエスにつながっているための道具です。そのことを弁えた上で、群れは教会の使徒的職務として牧者を尊び、その指導に従います。ですから、「牧師がいなくても大丈夫」ではなくて、キリストの務めを忠実に果たす牧師が教会には必要なのでして、それを招聘することが教会の大切な責任です。

 一人の人間としての牧師には多くの欠けがあります。しかし、そうした不完全な器を用いて、私たちに欠けのない恵みを備えてくださるのが主イエスによる牧会です。後任の招聘に当たって、あまり多くのことを望み過ぎないことが肝要です。むしろ、牧師の弱さを補って、西神教会の徳が高められるように、ふさわしい牧師が選ばれることを願います。

 聖書に基づいて法的に定められた牧師の務めについては、以前、2012年の合同学習会で学びました。講演録がホームページに掲載されていますので、ご覧になれる方は改めてお読みいただければと思います。その中で、牧師の任期についてお話ししました。牧師が一つの教会で勤める期間は短くて5年、10年はもう潮時で、長くても15年までと言われます。これは『牧師の仕事』という本を2002年に出された日本キリスト教団の鈴木崇巨(たかひろ)先生が書いておられることですが、私もほぼ同意します。牧師の間では「10年」と言われますが、キリがいい数字であるだけで、それほど根拠はないと思います。鈴木先生はこう書いています。

 長年同じ処に住み、同じ教会で働くことからくる安定や平和は人間的な安心感からくるものです。

つまり、そこにある信頼や安心は、真の牧者であるキリストから受けているものではなくなっている可能性がある、ということでしょう。これは牧師にも会衆にも同様に当てはまることだと思います。年配の方は特に、このまま何も変わらないでいいから落ち着いた教会生活を送りたい、と考えがちではないかと思います。しかし、そこにある平安は、この『詩編』が告白するような、主に従うことにある平安ではなくて、主イエスを自分に従わせて安心してしまっていることにならないでしょうか。

 また、鈴木先生は牧師が交代することのメリットをこう書いています。

 教会の人々は牧師を送り出し、新しい牧師を迎え入れる経験を通して、教会を守り維持する責任を自覚して成長します。

ここには改革派・長老派教会の教会観が明瞭に出ています。キリストの召集に基づく教会は霊的に平等です。民主主義的な教会制度ですから、会員一人一人の存在と責任とが重要です。そこでは、牧師招聘という課題に臨む姿勢が会員に問われます。その責任と自覚が持てないまま次々と牧師が代わる教会では、逆に御言葉への信頼が損なわれて、自立した教会として成長することができません。

 その点、この20年の歴史を通じて西神教会には多くの躓きは無く、3人の牧師が交代して今に至ります。昨年まとめた『20周年記念誌』に表された通り、そこに主イエスによる西神での牧会があったと認めることができるのではないかと思います。今年、新たな牧師を迎えるにあたって、主イエスのもとから遣わされる牧者に期待して祈り続けたいと思います。その祈りの中で示された後任教師を、教会として心から喜んで迎えることができるように十分な備えを積極的に整えたいと願います。

祈り

私たちのただ一人の羊飼いである主イエス・キリストの父なる御神、あなたが御言葉を通して約束しておられる平安を、私たち一人ひとりが皆、信仰のうちに保ち、どんなに暗い状況でも、あなたが伴い歩んでくださるなら、私たちは力尽きず、脅えずに歩みを進めることができると信じさせてください。私たちは今年、新しい牧師がここに送られることを願っています。どうか、御旨に適う相応しい牧会者をお立てくださって、この場で行われるあなたの牧会を継続させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

お問い合わせ

電話・ファクス 078-992-6658

神戸市西区糀台2-20-7

牧師 弓矢健児 (ユミヤケンジ)

最寄駅

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